の座敷で、机によりかかってお手本を書いておりました。
お手本というのは、ここの道場の学校に来る子供たちのために、西の内の折本をこしらえて、お松がそれに「いろは」と「アイウエオ」から始めて、村名尽《むらなづく》しに至るまで、それぞれ筆を染めているのです。
子供たちのためにお手本を書くのみならず、このごろでは、娘たちのために古今集《こきんしゅう》を書いてやったり、行儀作法を教えたりすることもあるのです。好んでお松が、人の師となりたがるわけではないが、お松は日頃の心がけもあり、ことに相生町《あいおいちょう》の御老女の家にある時、念を入れて字を習いましたものですから、なかなか見事な筆跡です。またその時に作法や礼式も心がけていましたから、今も、知っている限りのことは、人に伝えるようになったのです。
人に物を教えるということもまた、自分を教育する一つの仕事になりますものですから、今、お手本を書くにしても、お松は一生懸命であります。
幸いなことに、登は乳母《うば》がついて来ていてくれるものですから、手数もかからず、郁太郎の方は、もう四つになろうというほどでもあるから、これも、さほど世話が焼けない上に、子守がついていますから、お松はこうして、教育(というのも大袈裟《おおげさ》ですが)の方に身を入れることができるのであります。もう一つ幸いなことは、ほとんど絶家《ぜっけ》のようになっていて、荒れるに任せていた宏大な机の家屋敷が、これらの連中が移り住むことになってから、急に光りかがやきはじめたような有様であります。
人間の家は、人間が住まなければ駄目なものです。
お松のここで書いているお手本は、単に道場へ集まる子供たちに分けてやるのみならず、これから三里も五里も山奥の炭焼小屋や、猟師の家庭にまで入ります。
どうかするとこうしているところへ、武者修行が尋ねて来ることがある。道場の名残《なごり》を惜しむためか、そうでなければ、化物退治にでも来た意気込みでおとのうて見ると、応対に出るのが妙齢なお屋敷風のお松ですから、さすがの武者修行がタジタジで、
「ははあ、では、あなたは机竜之助殿のお妹御でもござるか……」
といってお松の顔をながめ、薙刀《なぎなた》の一手もつかうものかという思い入れをする。
「いいえ、わたくしどもは、ただお留守居をしているだけなんでございます」
そうしているところへ間もなく、ゾロゾロと草紙をかかえた近辺の子供が集まって来るものですから、武者修行は到底、薙刀をつかう娘ではないとあきらめて退却する。
海蔵寺の東妙和尚なども、お松の字をことごとく称美して、
「これは見事なものだ、どうしてわしらは遠く及ばない」
と言いました。それも謙遜だろうが、お松の字はお家流《いえりゅう》から世尊寺様《せそんじよう》を本式に稽古しているのですから、どこへ出しても笑われるような字ではありません。
そこで今までは、東妙和尚からお手本を書いてもらっていた人が、改めてお松をお師匠番にたのむ。こうなるとお松がこの寺小屋の実際上の校長で、その職分を、いよいよ興味あることに思っています。
しかしながら、現在|仇《かたき》の家に来て、自分たちが知らず識らずその事実上のあるじのようなところに置かれているのに、当の主人は行方《ゆくえ》が知れぬその因縁の奇《くす》しきことを思うと、お松は泣きたくなります。
早く、郁太郎を成人させて、立派にこの家を嗣《つ》がせて上げたいものだという心持に迫られる時、お松は、郁太郎を父竜之助に似ないで、祖父の弾正の優れたところにあやからせたいと思います。
ほどなく傘をさして二人、三人、五人と上って来る石段。
手習草紙を帯からブラ下げて、風呂敷を首根ッ子へ結えたのが、
「誰だい、ここんちへ、お化けが出るなんていったのは、三ちゃんかエ」
「おいらは、聞いたんだよ、よそで」
「悪いや、悪いや、お化けが出るなんて悪いやい」
「だって聞いたんだもの。おいらが、こしらえ事をいったんじゃねえのよ」
「悪いや、お化けが出るなんて」
こういいながら石段を上る子供連。村里から机の屋敷へのぼるには、かなりの石段を踏まなければならぬ。
「だって、この間も、旅のお侍がいってたよ」
「何だって」
「あの道場へお化けが出るって」
「嘘だあい」
「聞いてみな、今度、旅のお侍が通ったら聞いてみな」
「どんなお化け?」
「知らねえや、おいらは見たことがねえから」
「嘘だい」
たしなめ役の丈《たけ》の高いのが、お化け説をどこまでも否定する。
「お化けが出たって、夜だけだろう」
「そうさ」
「夜だけなら怖くねえや」
いちばん背の低いのが怖くないという。
「与八さんがいらあ、与八さんがいるから怖くねえや、与八さんは力があるんだぜ、とても力があるからなあ」
「
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