列を見て戦わざるに逃げた余憤がこんなところへ来て、負惜しみをやり出したな。
 しかし、先生が頑《がん》としてこの乗り方を改めないものですから、馬方もぜひなく、そのまま馬をひき出しました。
 ですから、通行の人が指さしては笑います。
 それをいっこう取合わない道庵は、
「なあに、これが本格の乗り方だよ、笑うやつは古式を知らねえのだ」
というが、大坪流にも、佐々木流にも、こんな乗り方はなかったはず。
 ははあ、読めた。熊谷の蓮生坊が上方《かみがた》から帰る時は、西方浄土《さいほうじょうど》を後にするのを本意にあらずとして、いつでも逆に馬に乗って『極楽に剛の者とや沙汰すらん、西に向ひて後ろ見せねば』と歌をよんだ。先生、その伝を行っているのだな。しかし、東に向いたのでは意味をなさない……やはり、いまおびやかされた、大名の行列に対する意地張りでしょう。
 この逆乗りで納まり返った道庵。

         二十四

 武州沢井の机竜之助の剣術の道場の中で、雨が降る日には、与八が彫刻をしています。
 海蔵寺の東妙和尚が彫刻に妙を得ていたものですから、それを見様見真似に与八が像を刻むことを覚えてしまいました。
 与八のきざむ仏像――実は菩薩《ぼさつ》は大抵お地蔵様に限られているようです。お地蔵様以外のものを刻んだのを見たこともないし、また刻めもすまいと思われる。そのお地蔵様も、木よりは石が多いのです。
 ともかく、ひまに任せてはこうしてお地蔵様を刻んでいるから、その作り上げた数も少ないことではあるまい。これは皆、しかるべき需要者があってする仕事で、これだけでもけっこう商売になりそうですが、与八はこれで金儲《かねもう》けをしている様子もありません。
 与八さんの刻んだお地蔵は相好《そうごう》がいい……と人が賞美して、註文がしきりに来る。
 また、与八さんのこしらえたお地蔵様は功徳《くどく》がある……といって依頼者がつづいて来る。そういうわけで、それからそれと、与八にお地蔵様を刻ませることになったのですが、それを与八が引受けて、山の仕事と、畑と、水車と、子守と、学校との余暇、雨の降る日などを選んでとりかかる。
 百年の後、木食上人《もくじきしょうにん》の稚拙なる彫刻がもてはやさるるところを以て見れば、与八の彫刻にも取るべきところがあるかも知れないが、今のところではそう感心したものではありません。けれども、与八がこしらえたということが、人の心を縁喜《えんぎ》にすると見えて、出来の如何《いかん》は問わないで、みな喜んで頂礼《ちょうらい》して捧げて持ち帰る。
「与八さん、皆さんが、あれほど有難がって頼むんですから、かかりっきりに彫刻をなさいましよ、ほかの仕事は誰でもやれますが、その彫刻は与八さんでなければ出来ない仕事でしょう」
とお松が、かたわらからすすめるくらいです。与八にとってはドレが本職で、ドレが余技ということもないが、一を専《もっぱ》らにするために、他を粗略にするということはないようです。ですから、彫刻のみにかかりきりということはできません。今日は雨が降るから、それで道場の中で彫刻をはじめたものです。
 今とりかかっているのは石の高さ一尺――極めて小さなものです。これはある子供の母が、死んだおさな児へ供養《くよう》の手向《たむ》け。
 相好《そうごう》がいいというのは、単純なる鑑賞の心。功徳があるというのは、多少功利の念が入っているかも知れない。供養のためというのは本当の親心。死んだ子を行くところへ行かしめたい親の慈悲。与八さんの刻んだお地蔵様が、賽《さい》の河原でわが子を救うという。
 与八もこのごろ一つ助かることは、お松が来てくれたので、まず児を育てるの心配がなくなったこと。お松は、郁太郎と登を両手に抱えて、かたわら与八の仕事のすべてに後援を与えている。幸いに、近所から子守も来てくれるし、たのめばいつでも人手が借りられる。剣術の道場は、いつか知らず寺小屋となり、学校となり、与八の製作場となる。
 無心で与八が地蔵を刻んでいる時、どうかすると、ふいと気がさして道場の武者窓を見上げることがある。そこから、誰か顔を出しているようでならぬ。
 誰というまでもない、それは女で――
「与八さん、郁坊は無事ですか」
と恨めしい声。
 その時に与八は、郁太郎の母お浜の面影《おもかげ》を思い浮べるのです。どうも、こうして仕事をしている与八のてもとを、お浜が武者窓からのぞいているような気がしてならないのです。
 そういう時に与八が悲しい思いをする。もろもろの罪業《ざいごう》が、みんな自分を中に置いてめぐるように思い出す。この罪業のためには、持てる何物をも放捨して、答えなければならないという心に責められる。
 与八が道場で彫刻をしている時、お松は母屋《おもや》
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