る人が、この二人蓮生に向ってこういう告げ口をしたものさ、熊谷の入道や、宇都宮の入道は無学の者だから、法然様は念仏だけを教えてだましておくんだが、もっと、悧怜《りこう》な人には、もっと高尚な教えを説いて聞かせてるんだ……こういうことを二人の耳へ入れたものがあったからたまらない、二人がムキ[#「ムキ」に傍点]になっておこって、法然様のところまで詰問《きつもん》に出かけ、これも懇々《こんこん》とさとされて引下ったことがある」
「なるほど」
「そうかと思えば、物に触れて無常を感じてみたり、涙を流してみたりするところに美質があるのさ、その無邪気なところをお前さん方、神経質にしてしまってはいけませんよ」
「注意致しましょう」
「それからお前さん方、熊谷様はしの[#「しの」に傍点]党だか、丹《たん》の党だか御存じか」
 若い人たちが煙《けむ》にまかれて聞いているものですから、道庵先生もいい心持になって、やがて、また芝居の方に逆戻りをして、
「熊谷の芝居は嫩軍記《ふたばぐんき》に限ったものさ、あの物語の、さてもさんぬる……で故人|柏莚様《はくえんさま》[#「柏莚様」は底本では「柏筵様」]はこういう型をやったね、一二をあらそいぬけがけの……それ鉄扇をこう構えて、平山熊谷討取れと……」
 興に乗じた道庵先生は、故名優の型をやり出して、あたり近所の煙草盆や煙管《きせる》を無性《むしょう》に掻《か》き集めたり、突き飛ばしたりするものですから、近所迷惑は一方《ひとかた》ではありません。若い劇作家連は面白半分、迷惑半分に聞いてはいるものの、、いっこう面白くないのは宇治山田の米友であります。
 芝居そのものに予備知識のない米友には、こんな物語がばかばかしく、聞いていられるものではありません。
 ぜひなく米友は、盛んに団子を食べました。
 話より団子という洒落《しゃれ》でもありますまいが、団子を食べてまぎらかしていたが、ついにこらえきれず、
「先生、いいかげんにしたらどうだ」
「そうだそうだ、日が暮れらあ」
 大慌《おおあわ》てで団子と茶代を置いて、道庵が外へ飛び出したものですから、皆々ホッとしました。
 団子屋を飛び出してから間もなく、道庵先生が、
「あ、敦盛《あつもり》を手にかけるのを忘れた」
 これはこの土地に、梅本という蕎麦《そば》の名物があったのを、つい忘れて立寄らなかった洒落でしょう。蕨《わらび》の奈良茶、上尾博労新田《あげおばくろうしんでん》の酒屋、浦和|焼米坂《やきごめざか》の焼米、といったような名物に挨拶しながら、熊谷で、梅本の蕎麦を食べないということが心残りになるらしい。負けおしみの強い道庵は、これからまた引返して、その蕎麦屋を尋ねようといい出すかも知れない。
 ところへ、上手《かみて》から聞えて来たのが、
「下に――下に――かぶり物を取りましょうぞ」
 これはいわずと知れた大名のお通りの先触れです。
 どうも大名のお通りというやつは、道庵と米友の性《しょう》に合わない。
 その声を聞きつけた道庵は、顔をくもらせて、
「さあ、いけねえ、友様、面倒だから、そこらへ入《へえ》ってしまおう」
 道庵は、蕎麦のことなんぞは打忘れて、米友を促すと共に、丸くなって脇道へ走り込んでしまいました。
 米友とても、大名の行列があんまり好きではない。
 けれども、先生のように丸くなって逃げる必要はないと思う。大名に借金があるわけではなし、こんなに丸くなって逃げなくてもいいと思うが、道庵がやみくもに逃げ出したものですから、米友もまた、そのあとを追わないわけにはゆきません。
 やみくもに逃げた道庵は、ついに畑の中へ飛び込んで、桑の木へ衝突して、ひっくり返り、そこであぶなくとりとめました。桑の木がなければどこまで飛んで行ったかわかりません。そこへ駈け寄った米友が、
「先生、怪我はなかったかい」
「おかげさまで……」
 畑の中へひっくり返って、羽織をほころばした上に、土をかぶった有様は、見られたものではありません。米友がそれを介抱して、それから廻り道をしてまた本街道に出ると、ちょうど通りかかりの駄賃馬を、道庵が呼び留めました。
 値段をきめて、深谷《ふかや》まで二里二十七町の丁場《ちょうば》を、ともかく馬に乗ることにきめました。
 いよいよ、馬に乗る段になると馬方が、
「旦那、それじゃあ向きが違いますぜ」
と笑ったのも道理。道庵は、馬の頭の方へ自分の尻を向け、馬の尻の方へ自分が向いて乗込んだものだから大笑いです。
「ナアーニ、これが本格だ」
 道庵はすましたもので、向きをかえようとも致しません。
「は、は、は、旦那は御冗談者《ごじょうだんもの》だ」
 馬方どもが笑いますが、道庵は笑いません。
「坂東武士が、敵にうしろを見せるという法はねえ」
 さては、先生、大名の行
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