てしまいました。
「時に、皆様や」
 たまり兼ねた先生が、若いのへ口を出しかけると、先方で、
「何ですか」
「承れば、あなた方は熊谷次郎直実公の事蹟を調べ、演劇にお作りなさるそうですね」
「左様……少しばかり書いてみたいと思って、遊びに来ました」
「それは結構なお心がけで……拙者も、こう見えても芝居の方が大好きでございましてね、ことに熊谷とくると夢中でございます」
「そうですか」
「しかし、あなた方のような血のめぐりのいいお若い方とちがって、この通りの頭でございますから……」
 道庵先生は、ちょっと自分の頭の上へ手をやって、くわい[#「くわい」に傍点]頭を摘《つま》んで見せました。
「どう致しまして」
 若い劇作家連も、道庵の髪の毛をつまんだ手つきを見て、仕方がなしに苦笑いを致しました。
「この通りの頭でございますから、新しいことはあんまり存じませんが、一の谷の芝居はいろいろのを見ましたよ、おめえ方は知りなさるめえ、大柏莚《だいはくえん》を見なすったか」
「いいえ」
「今時は、熊谷といえば、陣屋に限ったようなものだが、組討ちから引込みがいいものさ。わしゃ、渋団《しぶだん》のやるのを見ましたがね、こう敦盛《あつもり》の首を左の脇にかいこんで、右の手で権太栗毛《ごんだくりげ》の手綱《たづな》を引張ってからに、泣落し六法というやつで、泣いては勇み、勇んでは泣きながら、花道を引込むところが得もいわれなかったものさ。今時、ああいうのを見たいたって見られないねえ」
「渋団は好かったそうですね」
「好かったにもなんにも。総じて今の役者は熊谷をやっても、神経質に出来上ってしまって、いけねえのさ」
「なるほど」
「それから、お前さん方、蓮生をレンショウとおよみなさるが、あれも詳しくはレンセイとよんでいただきたいね」
「蓮生坊をレンショウボウとよまずに、レンセイとよむのですか」
「左様、あの時代に蓮生が二人あったんですよ、本家がこの熊谷、それからもう一軒の蓮生が、宇都宮の弥三郎|頼綱《よりつな》」
「なるほど」
「まあ、お聴きなさい、熊谷の次郎が最初に出家をしてね、法然様《ほうねんさま》から蓮生という名前をもらって大得意で――この時は間違いなくレンショウといったものですがね、ある時、武蔵野の真中で、武勇粛々として郎党をひきつれた宇都宮弥三郎と出逢《でっくわ》すと、熊谷が、弥三郎、おれはこの通り綺麗《きれい》に出家を遂げて、法然上人から蓮生という名前までも貰っているのに、お前はいつまでも、侍の足が洗えないのか、かわいそうなものだな、とあざ笑うと、そこがそれ、おたがいに坂東武士《ばんどうぶし》の面白いところで、宇都宮がいうには、よしそんなら、おれも出家して見せるといって、すぐさま、法然上人の許へかけつけて、出家を遂げてしまったのだが、その時の言い草がいい、熊谷に負けるのは嫌だから、拙者にも熊谷と同じ名前を下さい、ぜひ、熊谷と同じ法名《ほうみょう》でなければ嫌だ……」
 その時、道庵は何と思ったか、あわてて自分の口へ手を当てて、子供があわわをするように、
「様、様、様、様」
と続けざまに呼びましたから、若い劇作家連が変な顔をしました。
 実は、ここに長者町一味のならず者がいなかったから幸い。いれば先生は忽《たちま》ち尻尾《しっぽ》をつかまえられてしまう。さいぜんから聞いていれば調子に乗って、渋団だの、熊谷の次郎だの、宇都宮の弥三郎だのと、名優や、坂東武士に向って、しきりに呼捨てを試みていた。苟《いやし》くも人格を表明する者に向って、様づけを忘れた時は、百文ずつ罰金を納めることに自分から約束を出しておいたはず。そこで、先生が、あわてて口を押えたのですけれど、この人たちは気がつきません。そこで先生も、やや安心して、若い劇作家連に向ってひきつづき熊谷の物語をはじめました、
「法然様も、これには驚いてね、法名が欲しければいくらでもしかるべきものを上げよう、なにも熊谷が蓮生《れんしょう》とつけたから、お前もそれと同じ名前でなければいけぬという理由はない、第一、それではまぎれ易《やす》くて、名前をつける意味をなさない……と法然様がねんごろに諭《さと》されたけれども、宇都宮の弥三郎はいっかなきかない、ぜひ熊谷と同じ名前を貰って行かなければ、あいつの前へ幅が利《き》かないという理窟で、法然様もあきれ返り、よしよしと同じ蓮生の名を授けてくれたものだから、宇都宮の弥三郎様が、鬼の首でも取ったつもりで、大喜びで東国へはせ返り、熊谷様の前で溜飲を下げたものだ……それからこっち、本家の方がレンセイ、新家《しんや》がレンショウとこうなったんだ。ここいらが昔の武人のいいところで、今時のヘラヘラ役者が、海老蔵を名乗りたがるとはわけがちがう」
「そういうわけでしたか」
「それからまた或
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