ッ児の見本でしょう。その意味で道庵先生が知っているのです。
 大宮から上尾《あげお》へ二里――上尾から桶川《おけがわ》へ三十町――桶川から鴻《こう》の巣《す》へ一里三十町――鴻の巣から熊谷へ四里六町四十間。
 熊谷の宿《しゅく》を通りかかって、芝居小屋の前で、気障《きざ》な男の水垂のげん[#「げん」に傍点]公を見た道庵先生が、
「どうもいけねえ、昔はそれ、芝居に、なかなか見巧者《みごうしゃ》というやつがいて、役者がドジをやると半畳をうちこんだものだが……そいつが隙《すき》がなかったね、聞いていて胸の透くようなやつがあったくらいだから、役者にもピンと来て、悪くいわれてもはげみ[#「はげみ」に傍点]にならあな、舞台に活気も出て来れば、お客も喜ばあな、うちこむ当人も無論いい心持で、それを見得《みえ》にやって来るところが可愛いものさ。ところが今時の半畳屋と来た日にゃ、下等でお話にならねえ、時代が変っているのに頭がなくて、鼻っぱしだけがイヤに強く、人のイヤ[#「イヤ」に傍点]がるようなことをいえば、それで抉《えぐ》ったつもりでいる。あのげん[#「げん」に傍点]公様などがいいお手本さ、あの男の口癖が、二言目には百姓呼ばわりで、あれで江戸ッ児専売のつもりなんだから恐れ入る。なにもげん[#「げん」に傍点]公に恩も怨《うら》みもあるわけじゃねえが、あんな下等なのがおおどころにブラ下っていると、芝居道の進歩の邪魔になる、芝居の方も、も少し向上させなくっちゃいけねえね」
といいました。つまり先生の心持では、あらゆる方面に気を配って、それに親切を尽してやりたいところから、こういう半畳屋を憎む心になったのでしょう。悪く取ってはいけません。
「しかし、そういう下等な奴は下等な奴として、本当の江戸ッ児にはいいところがあるよ、本当の江戸ッ児にはどうして……」
といっているうちに、道庵先生が急に頤《おとがい》を解いて、米友を吃驚《びっくり》させるほどの声で笑い出しました、
「アハハハハハハハ」
「何だ、先生、何がおかしいんだい」
「米友様、あれ見ねえ、あの幟《のぼり》をよく見ねえな」
といって道庵先生が、芝居小屋の前に林立された役者の旗幟を指さしましたが、それをながめた米友には、別になんらの異状が認められません。どこの芝居小屋にもあるように、景気のよい色々の幟が、役者の名を大きく染め出して林立しているばかりです。
「う――ん」
といって、先生がおかしがるほどの理由を、その幟の中から見つけ出すことに、米友が苦しんでいると、
「アハハハハハハハ」
と道庵がわざとらしく、また大声で笑い、
「米友様、よくあの幟《のぼり》の文字をごらん、市川|海老蔵《えびぞう》――と誰が眼にも、ちょっとはそう読めるだろう。ちょっと見れば市川海老蔵だが、よくよく見ると、海老の老《び》という字が土《ど》になっていらあ。だから改めて読み直すと市川|海土蔵《えどぞう》だ、海土《えど》の土の字の下へ点を打ったりなんかしてごまかしていやがら。変だと思ったよ」
「そうかなあ」
 道庵にいわれて米友が、改めてその文字を読み直してみると、なるほど、海土蔵と書いて、海老蔵と読ませるようにごまかしてある。しかし、米友はごまかしてあったところで、ごまかしてなかったところで、道庵先生ほどにそれをおかしいとも悲しいとも思いません。
 というのはこの男は、まだ生れてから芝居というものを見たことのない男ですから、海老蔵が海土蔵であろうと、海土蔵が江戸ッ児であろうとも、大阪生れであろうとも、いっこう自分の頭には当り障りのないことですから、「そうかなあ」で済ましてしまいました。
 これには道庵も張合いがなく、さっさと歩き出して、テレ隠しに、一谷嫩軍記《いちのたにふたばぐんき》の浄瑠璃《じょうるり》を唸《うな》り出しました、
「夫の帰りの遅さよと、待つ間ほどなく熊谷《くまがい》の次郎|直実《なおざね》……」
 変な身ぶりまでして歩くほどに、やがて蓮生山熊谷寺《れんしょうざんゆうこくじ》の門前に着きました。
 道庵と米友は蓮生山熊谷寺に参詣して、熊谷次郎直実の木像だの、寺の宝物だのを見せてもらい、門前の茶店へ休んで、名物の熊谷団子を食べておりますと、そこへ若いのが四五人入り込んで来て、同じように熊谷団子を食べながら、威勢のいい話を始めました。
 それを道庵先生が聞くともなしに聞いていると、いずれも熊谷次郎に関する話で、なんでもこの若い人たちは演劇の作者連で、旧来の一谷嫩軍記《いちのたにふたばぐんき》では満足ができないから、直実に新解釈を下したものを書こうとして、わざわざここまで調べに来たものらしいのです。そこで道庵先生もその心がけに感心し、なお頻《しき》りに団子を食べながら若いものの話を聞いているうち、先生が早くも釣り込まれ
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