ら、私の方から希望を致したいのですが、いかがです、あなたはよくても家族の方が……」
「左様……」
 そこで白雲が、家族のことを考えさせられました。この男とても、大空にただよう白雲の如く、行くも、とどまるも、自由には似ているが、自由ではないのが人間の原則です。
 浅草の露店の時に伴うていた妻子ある以上は、この人の帰りを待っているに相違ない。この人を柱とも杖ともたよっているに相違ない。
「それはなんとか始末をしておきますよ」
 こういう話をしながら、二人は海岸へ出ました。

         二十三

 武州大宮へ参拝した道庵先生は、それを初縁として、今後沿道の神社という神社には、少々は廻り道をしても参拝して行こうとの案を立てて、有無《うむ》をいわさず、米友にも同意をさせました。
 道庵が、こういう敬神思想を発揮するようになったのは、いつもの茶気とばかり見るわけにはゆかない。道庵も実はこのごろ、つくづくと考えさせられているのです。
 考えた結果は、どうしても日本国には、敬神思想を普及せしめなければならぬとの確信を得たものらしい。
 というのは、道庵も十八文で売り出したり、貧窮組のリーダー気取りになってみたり、またデモ倉や、プロ亀あたりとも交際をしてみたが、どうもあんまりたのもしい気がしない。
 デモ倉や、プロ亀ときては、新しい方へ頭をつっこんで、かなり鼻っぱしが強いかと思うと、風向き次第で、からっきし腰が据っていない。そのくせに人をおだてたり、あやつってみようとするケチな了簡《りょうけん》がある。そこで道庵が気がつきました。
 あいつらは平民の味方でも何でもないのだ。飯の種に新しいことを饒舌《しゃべ》り廻るだけで、たとえば大塩平八郎みたように、イザといえば、身を投げ出してかかる代物《しろもの》ではなく、佐藤|信淵《しんえん》のように、経済論から割り出そうという代物でもない。デモの調子のいい時はデモ、プロの風向きのよかりそうな時はプロ、つまり時の運気につれて飛び廻る蠅だ。あんな奴等の存在することは、本当の平民社会の信用を害し、その実際精神をさまたげ、かえって、人間に貴重な忍耐とか、奉公心とかいう方面の徳をすり減らすだけが能だ。
 本来、人間というものは、まだそう完全には出来ていないのだから、畏《おそ》れるところを、知ったり、知らしめたりして、つつましやかな徳を、持たせたり、持ったりしなければ、この社会が成り立つものでないということを、道庵先生がこのごろ思いつきました。
 といって、畏れというのは、サーベルや、鉄砲で脅《おどか》すことではない。権柄《けんぺい》ずくで人民を圧制することでもない。神ほとけを信仰して、畏れる心がほんとうに起らなければならないということに、道庵先生が気がつきました。
「べらぼう様、神様ほとけ様が無《ね》えなんというやつがあるものか、お天道様や水は誰がめぐんでくれたんだ、人間が神様をまつるのは、勿体《もってえ》ねえという心の現われなんだ、勿体ねえという心を持たねえ奴は物を粗末にする、物を粗末にする奴は人間を粗末にする、人間を粗末にする奴は国を粗末にする、国を粗末にする奴が、神様を粗末にするんだ」
 道庵一流の論法でおしきったはいいが、この案が通過すると共に、路傍の稲荷《いなり》や荒神様《こうじんさま》にまで、いちいち幣帛《へいはく》を奉って行くから、その手数のかかること。気の短い同行の米友がかなりの迷惑です。それでもいちいち道庵並みに、神という神にはみな拝礼を遂げて、武州|熊谷《くまがや》の宿へ入りました。
 ここでは規定の神社参拝のほかに、熊谷蓮生坊の菩提寺《ぼだいじ》なる熊谷寺《ゆうこくじ》に参詣をしようと、二人が町並を歩いて行くと、一つの芝居小屋がありました。
 おびただしく市川|某《なにがし》の幟《のぼり》を立てた芝居小屋の前を通ると、小屋の窓から首を出していた一人の気障《きざ》な男を道庵先生が見て、
「あれ……あれは水垂《みずたり》のげん[#「げん」に傍点]公様じゃねえか」
といって、ちょっと足を停めました。
 水垂のげん[#「げん」に傍点]公というのは、江戸ッ児気取りで、人を見ると二言目には百姓といいたがる気障な奴で、そうかといって、当人は芝居の台本を作るだけの頭はなく、劇評をするだけの腕もなく、演芸の風聞を聞きかじっては、与太を飛ばしたり、捏造《ねつぞう》をしたりして得意がっているが、それも旧式の下品な半畳で、とても今時の表へ出せる代物《しろもの》ではないが、ある大劇場に長くいた年功で、鼻ッぱしが強く、江戸ッ児をその鼻の先にかけているのですが、もし、勝海舟や栗本鋤雲《くりもとじょうん》あたりを江戸ッ児の粋《すい》なるものとすれば、この水垂《みずたり》のげん[#「げん」に傍点]公の如きは、下等な江戸
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