方に向き直り、
「風呂がわいたそうですが、おはいりなさってはどうです」
「イヤ、それは有難い、なにぶんこの通りですから……」
 白雲は喜んで立ち上りました。久しく湯の中をくぐらなかったので、身体《からだ》がウザついて来たと見え、お辞儀を忘れて立ち上り、
「遠慮なしに頂戴致しましょう」
「風呂場はあちらです……それから今のあの少年が世話をしてくれますが、あれは耳が聞えない聾《つんぼ》ですから、用事があったらば、手まねで差図をして下さい」
「承知致しました、それではお先に御免をこうむります」
 白雲が風呂場へ立ってしまったあとで、駒井は田山白雲の画帳を、物珍しくいちいち見て行きました。
「これは見たような女だ」
 駒井が、じっと見入ったのも道理、そのうちに一枚の美人の首だけがありました。
 これは模写でもなければ、想像でもありません。まさしく、モデルがあって描いておいたスケッチの類である。しかもその美人の面影《おもかげ》に、どうも見覚えがある――と思ったが、駒井は、咄嗟《とっさ》には思い出せませんでした。しかし、それも、もう一枚めくって見れば、難なく解決されたことで、そこには前に首だけ写生しておいた美人の全身が、妙な旋律を起しながら、胸に物を抱いて、舞を舞うているところが描かれてありました。
 暗澹《あんたん》たる燈火の下で、栄之《えいし》の絵にあるような、淋しい気品のある美人が踊っている。その両袖にしかと抱いているのは人形の首――ではない、乾坤山日本寺《けんこんざんにほんじ》の羅漢様の首。ははあ、白雲はあの狂女をつかまえたのだなと駒井が合点《がてん》しました。
 風呂から上って、駒井甚三郎の衣裳を着せられた田山白雲の形は、珍妙なものとなりました。それは白雲が大兵《だいひょう》の男であるのに、駒井の普通の丈《たけ》は合わず、ことに着慣れない筒袖が、見た眼よりも着た当人を勝手の悪いものにして、ちょいちょい肩をすぼめてみる形が駒井を笑わせる。
「あれから小湊《こみなと》へ参りました」
 白雲は、風呂へ入る以前の岡本兵部の娘の解釈はもう忘れてしまって、早くも話が小湊の浜まで飛んで行きました。
「小湊は、どうでした」
「あそこには長くおりましたよ、十日も逗留《とうりゅう》して、毎日、波ばかり描いていました。これがその波です」
といって白雲は行李《こうり》の中から、また別の画帳一冊を取って、駒井の前に置くと、
「なるほど」
 駒井はそれを受取ってひもといて見ると、一枚一枚にみな海の波です。
「小湊の浜辺は不思議なところで、あそこへ立ってながめていると、あらゆる水の変化を見ることができますな。水が生きている、ということを如実に見て取ることができます。水が生きている、という言葉は面白い言葉です、私が発明したのではありません、ある片田舎《かたいなか》の子供が発明したのです。沼と、池と、水たまりのほかに知らなかった子供が一朝、海のそばへ連れて来られて、最初に絶叫したのがこれです、ああ水が生きてる! この破天荒《はてんこう》の驚異、生きてるという一語は、われわれには容易に吐くことができません。しかし、小湊《こみなと》の浜へ立って見ると、はじめて水が生きている、生きて七情をほしいままに動かしているということを、確実に感受せずにはおられません。まず脈々として遠く寄せて来る大洋の波ですな、あれが生けるものの本体で、突出する岬と、乱立する岩に当って波がくだけると怒ります……波濤《はとう》の怒りは、この世に見る最も壮観なるものの一つですね。堂々として、前路における何物をも眼中に置かずに押しかけて来るところが壮観です。来って物に当ると怒って吼《ほ》えます、そうして、たとい乱離骨灰に崩れても、崩れるその事が壮観たることを失いませぬ。忿怒上部《ふんどじょうぶ》の諸天は、怒りのうちに威相と慈愛とを失わないものですが、波濤の怒りはそれに似ていますな、われわれに壮観を与えて威嚇《いかく》を弄《ろう》さない、戦闘を教えても執念を残さない。巨人の心胸は、さながら怒濤そのもののようです」
 田山白雲はこういって、幾枚も幾枚ものうち、波の怒れる部分だけを取って、駒井の前に積みました。とても筆では間に合わない……といった心持に迫られながら……
 駒井は与えられた絵をいちいち取って、仔細にながめていると、白雲は言葉をついで、
「しかし、海を怒るものとばかり思ってはいけません、歌うものです、泣くものです、笑うものです、また戯《たわむ》るるものです……これを御覧下さい」
と言って白雲は、別に一枚を取って駒井の前にのべながら、
「そうです、海は戯るるものです。戯るるものということを、私は小湊の浜辺でほどよく見たことはありません。御覧下さい、これがその心持をうつしたつもりなのですが、どうして
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