、
「そうですか、確かにお受取り致しました」
素直《すなお》にそれを受入れたから、兵馬はそのまま帰って来ました。
そのあとで、今度はお銀様が改めて女中を呼んで、こういうことをたのみました、
「あの、さいぜんお泊りになった二人づれのお客様で、お一人はたしか仏頂寺様、も一人のお方は丸山様とかおっしゃいましたが、その方に、わたくしが内緒で、ちょっとお目にかかりたいのですが、伺ってよろしうござんすかどうか、お聞き申してみて下さい」
女中は、そのたのみを心得て立去ろうとするのを、お銀様がまた呼びとめて、
「それから、お伺いしてよろしければ、まことに失礼でございますが、怪我を致しておるものですから、これをかぶったまま失礼を致したいが、このことをお聞き入れ下さるように申し上げておいて下さい」
と念を入れてたのみました。
仏頂寺と丸山は、見知らない婦人の人が面会をしたいとの申入れを聞いて、不思議に思いました。けれども、辞退するガラでもないから、直《ただ》ちに承知の旨を答えると、そこへお銀様がやって来て、
「御免下さいませ、さきほど、使を以てお願いに上らせましたのを、お聞届け下されて有難う存じます、その節、併せてお願いを致しました通り、少々怪我を致しておるものでございますゆえ、このままで失礼を、おゆるし下さいますように」
見れば品のよい令嬢姿の女が、顔にはお高祖頭巾《こそずきん》をかぶったままでの、しとやかな挨拶です。二人は一議にも及ばず、
「いかなる御用か存ぜねども、まずこれへお通り下さるよう」
火鉢の間を分けて、お銀様を招じました。そこでお銀様が二人に向っての頼みというのは、こうです。
自分は宇津木兵馬の連れの者であるが、兵馬は机竜之助を敵《かたき》と狙《ねら》っていること御存じの通り。自分としては、そのいずれをも傷つけたくない心持であること。
ついては、あなた方のお計らいで、どうか二人を近づけないようにしていただきたい。自分としては、どちらが傷ついてもいやである。しかし、二人は近づかねばならぬ運命が迫っている。近づけばいずれかが傷つくか、両方が倒れる。それをさせないのは、一《いつ》にあなた方の方寸である。どうか、あなた方の計らいで、宇津木兵馬を机竜之助のそばへ寄せないようにして下さるわけにはゆくまいか。結局これが私の願いでもあり、おたがいのためでもある……ということを、お銀様は言葉をつくして二人に説きました。
二人は、お銀様のハッキリした語調と、情理ある頼み方に感心しているところへ、お銀様はさいぜん兵馬から受取った路用の全部を、二人の前に提出して、
「これはあの宇津木のために、あなた方がお預かりの上、御自由に処分をなすって下さい」
仏頂寺と丸山は、眼を見合わせました。
二十一
あれから二十日あまりたって、田山白雲は洲崎《すのきき》の駒井甚三郎を訪れました。
「どうです、よい収穫がありましたか」
駒井から問われて、
「ありました」
「それは結構です。まあ、こちらへ来て、ゆっくりと旅行談をお聞かせ下さい」
そうして、白雲は、駒井の応接室へ来て、卓《たく》を隔てて椅子に身を載せて相対すると、そこへ金椎《キンツイ》が紅茶と麦のお菓子を持って来て、出て行ってしまいました。
「あなたと別れてから、保田《ほた》へ参りましてな、岡本兵部というものの家へ、取敢えず草鞋《わらじ》をぬぎましたが、そこでまず二つの収穫を得ました」
「そうでしたか、その二つの収穫とは何と何です」
「一つはあの家に秘蔵の仇十洲《きゅうじっしゅう》の回錦図巻と、もう一つはあの家の娘です」
「ははあ」
「仇十洲は御存じの通り、仇英《きゅうえい》のことで、明代《みんだい》四大家の一人です……」
田山白雲は行李《こうり》を開いて、画帳一冊を駒井の前に置くと、駒井はそれを開いて、まず眼に触れた開頭の文章を読んでみました。
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「仇英、字《あざな》ハ実父、十洲ト号ス、太倉ノ人、呉郡ニ移リ住ム、呉派ノ第一流トイハレシ周東村ニ学ビ、人物鳥獣、山水楼観、旗輩車容ノ類、皆、秀雅鮮麗ト挙ゲラレ、世ニ趙伯駒ノ後身ナリト称セラル、特ニ流麗細巧ヲ極メシ歴史風俗画ニ於テハ艶逸比スベキモノナク、明代工筆ノ第一人者トイフベシ。伝フル所、士女雅宴、楼閣清集等ヲ画ケルモノ多シ……」
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駒井がそれを読んでいると、白雲は改めていうよう、
「それと、もう一つは岡本兵部の娘です、あれが、なかなかの傑作でした」
「それは、どういう意味でです」
駒井は画帳を見ながら、岡本兵部の娘の、傑作という文句の意味を問い返すところへ、
「風呂がわきました」
扉を押して金椎が顔を見せたものですから、駒井は、その方へ向いてうなずいて見せ、次に白雲の
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