敵《かたき》の手がかりがついて、こんな喜ばしいことはござらぬ。ついては仰せの通り明日早々、御両君の同行を願ってここを出立したいのでござるが、ちょうど、自分はたのまれて、さるところまで人を送り届けねばならぬ責任があるゆえに、一日おくれて……」
途中しかるべきところで落合おうということを申し出しました。
やがて二人が帰ってしまうと、静かにお銀様が次の座敷から出て来て、
「宇津木さん、わたしの尋ねて行く人は、あなたの仇《かたき》でしたね」
「そうです」
聞かれてしまっては仕方がない、兵馬は苦しげに白状しました。
「なんという因縁《いんねん》の戯《たわむ》れでしょうね」
「そうですね、全くなんともいえない忌《いや》な因縁になりました」
「わたしは好きな人を探しに行く、あなたは、どうでも、その人を殺さなければならないのですね」
「その通りです、彼を討たんがために、わたくしはこの年月を苦心致しました」
「けれども、わたしは、またあの人がなければ、生きていられないのですよ」
「私はまた、彼をそのままで置いては、男子の面目が立たぬのです」
「そうして、明日からの旅はどうなさるつもり?」
これは兵馬が、お銀様に先《せん》を越されました。
「お聞きの通りです、拙者は、あの人たちと行《こう》を共にしなければなりませぬ、辞退しても聞く人たちでありませぬ。そこであなたの御迷惑を考えて、その御相談を致そうと思っていたところなのです」
「どうしても、わたしが邪魔になりましょうね」
「いいえ……私は、あなたのお心任せにするつもりでいます、場合によっては、あの者共の同行をもことわるつもりです」
「どちらにしても結果は同じことですね、わたしはあの人を取りに行く、兵馬さんはあの人を殺しに行く……全く別な目的の二人が、今まで連れ合って歩いていたのです。つまり、あなたとわたくしとは、敵同士《かたきどうし》の間でありました」
「いや、拙者は、ほかの人を怨《うら》むというべき理由を持ちませぬ……あの嫂《あによめ》でさえも……」
と、兵馬はおとなしく言いました。
「それでも、わたしは、あの人を愛します、自然、あの人の立場を危なくする者があれば、力を極めてそれを妨げるのが、わたしの仕事ではありませんか。どうしても、あなたとわたくしとは敵同士です。宇津木さん、あなたがわたくしを邪魔にしなければ、わたくしの方で、あなたを邪魔にしますよ」
「それは御随意に任せるよりほかはありません」
「わかりましたか。それでは、もうあなたとの一緒の旅は今日限り、わたくしの方からお断わりを致しましょう。そうして、これから後はおたがいに敵同士です」
「いいえ……敵《かたき》という言葉は、そう軽々しく用いるものではありますまい」
「でも、わたくしは、生ぬるいことが嫌い、この世の人は敵《てき》でなければ味方、味方でない者はみんな敵です」
「ああ、あなたの考えは偏《へん》し過ぎている、片意地過ぎているようです。拙者は机竜之助を敵《てき》とはするが、あなたを敵とする気にはなれないのです」
「わたくしは、そうではありません、味方でないものはみんな敵です……兵馬さん、お前が机竜之助を討とうとすれば、わたしはあの人の味方ですから、あなたを殺してしまいます」
「よろしい、そのお覚悟なら、それでよろしうございます、拙者もこれから、あなたを敵《かたき》の片われと見ましょう」
「それがよろしうございます。わたしはここで、人をよんで座敷を改めてもらいます、あなたにもお世話になりましたが、どうぞ、お大切《だいじ》に……」
と言って、お銀様は手を鳴らして女中を呼び、更に番頭を呼んでもらって、自分だけ座敷を改めることをたのむと、さっさと、自分のものだけを運ばせて引移ってしまいました。
兵馬はお銀様の片意地に驚きました。けれどもお銀様を片意地の気質にさせた原因を知っているものですから、いい出した以上は、その意に任せるよりほかは仕方がないとあきらめました。
さて、こうなってみると、有力な後援者を失った自分は、また貧寒なる一人旅のさすらいだ。しかし、もう今度こそは、相手が塩尻峠を越したことを、歴然とつかんでいる。あの峠を越した以上は、その行先こそしかとわからないとはいい条、袋の鼠のようなものである。今度こそ――という目あてがついたようなものですから、旅嚢《りょのう》の欠乏も、さのみ気にはかかりません。むしろ、ここでお銀様の方から去ってしまったことが、身軽でよいくらいのものです。
そこで思い出して、預かっていた胴巻の金のすべてを取り出し、女中を呼んで、これをお銀様のもとへ届けさせますと、お銀様から突き戻して来て、
「そんなものは知らない」
と言ったとの返事。それではいけないと兵馬は自身|携《たずさ》えて行って渡すと、お銀様は
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