拙者共の筆では……海の怒りはともかくその髣髴《ほうふつ》をうつすことができても、その戯ればかりは、とても、とても……」
白雲は一枚一枚と、いわゆる海の戯れを駒井の眼前に並べました。
それは今までと違って、奇岩怪礁に当って水の怒るところとは打って変り、岸辺の砂浜に似たところや、板のような岩の上や、岩と岩との狭間《はざま》に打ち寄する波のあまりが、追いつ追われつしているところを描いたものです。
「ここには海の※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》があります、ここには海の静養があります、ここには海の逃避……」
田山白雲は、着物のゆきたけの合わないこともすっかり忘れてしまいました。
「そういうふうに、小湊の海の浜辺に立つと、あらゆる水の躍動が見られるものですから、つい十日あまりを水の写生で暮してしまいました」
駒井甚三郎は始終受身で、白雲の語るだけのことを語りつくすまで聞いてしまおうとの態度です。客を好まない人も、客の性質によっては、その貴重な研究の時間をいつまでも、それがためになげうって悔いないだけの余裕はあるようです。
白雲は興に乗じて語りつづけました。
「われわれの写すところは、形と色とだけの世界ですが……そこで小湊の浜辺には、あらゆる波の形が存在しているとすれば、おのずから、あらゆる波の色も存在している道理でしょう。西洋の画家は色を研究します、東洋とても色を蔑《ないがし》ろにはしませんが、形を写せば、色はおのずから出て来る道理です」
「そうはゆきますまい」
駒井はこの時、軽い抗議を挟みました。
「どうしてです」
白雲は熱心な眼をかがやかせて、駒井の抗議を食いとめながら、
「どうして形を写して、色が現わせないのですか」
改めて見直すまでもなく、白雲の描いた海は、一枚として着色のものはありません、みんな墨で描いたものばかりです。その点を駒井はいいました、
「桜の花だけを描いて、淡紅《たんこう》の色が出ますか、海の動きだけを写して、青く見えますか」
「そこです――」
白雲は膝を進ませて、
「そこです、私の描いたものにそれが現われなければ、私の恥辱です。森羅万象《しんらばんしょう》をいちいちそれに類似した色で現わさねばならぬという仕事は、私にいわせると細工師《さいくし》の仕事で、美術の範囲ではありません。私は墨で描いたこの海の波に、いちいちの色の変化を現わしたつもり――でなければ現わすつもりでかきました、色ばかりではない、音までも……」
といって白雲は、何か急に悲しい色をその熱した満面に漲《みなぎ》らせ、
「音までも……といいたいのですが、不幸にして、私には辛《かろ》うじて高低の音階の程度だけしか出すことはできません。音律はある程度まで現わし得るかも知れませんが、音相に至っては、今のところ呆然自失《ぼうぜんじしつ》するばかりです。悲しいことです。この悲しさを今回の旅が、つくづくと私に教えてくれました」
こういった時の白雲の面《かお》は、言おうようなき悲壮なものにうつりましたから、その論旨はわからないながら、その悲壮な色に駒井が動かされました。
田山白雲は眼の中に涙をさえたたえて、言葉をつづけます、
「私が、浜辺に立って熱心に写生を試みていますと、一人の居士《こじ》が来ていいますことには、田山さん、あなたこの波の音を聞いてどう思いますか……と、こう問われたのです。そこで、ちょっと挨拶に困っていますと、この小湊の浜の波の音は、ところによって違います、あちらの沖で打つ波は、諸法実相と響きます、ここで聞いていると、他生流転《たしょうるてん》の響きに変りますね、汐入《しおいり》の浜では、歴劫不思議《りゃくごうふしぎ》が聞え、妙《たえ》の浦《うら》では南無妙法蓮華経が響きます、そのつもりで波の音を聞きわけてごらんなさい……こういわれましたから、私はナーニとその時は思いましたね、波の音にまで、そんな線香くさい響きがするものかと、その時は頭からばかにしてかかると、その居士《こじ》がいいましたよ、田山さん、あなたは水が生きている、波が七情をほしいままにしているといったではありませんか、生きているものの音《おん》に七情の現われはありませんか?……と、こういわれて私はハッと気がつきました。それお聞きなさい、大海の波の音が、今、諸法実相を教えていますといわれたとき、ゾッとしたのです」
田山白雲は、大《だい》の身体《からだ》をゆすぶって、その目から涙をこぼして、拳をわななかせました。
田山白雲は暫くして、昂奮から醒《さ》めたように冷静になって、
「日蓮の遺文集を読み出したのは、小湊滞在中の記念です。私はその十日の間に、日蓮の遺文全部を読みました。片田舎の子供が初めて海を見て、水が生きてる! といったように
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