、それから老人と話し込んでいるうちに、老人の語るところのものには、なかなか聞くべきものがありました。
竹刀《しない》の稽古と真剣とは全く別物であること。剣術の巧者《こうしゃ》は必ずしも真剣の勇者ではないこと。誰もいいそうなことだが、この老人は相応に実験を積んで来たと見えて、耳新しく聞えました。そのうち、初心の人が、真剣の立合をやむなくせられた場合、すなわち、どうしても刀を抜いて立合わねばならぬ場合には、眼をつぶって立合うに限る――ということから、いったい、人間の眼というものは見るべからざるものを見る時は、害あって益がないものだということ。
それと同じで、有能者が無能者に負けることの逆理を説き出したのが、なるほどと聞きなされました。
「また、おいでなさい。無眼流の極意は、この見える目をいったんつぶしてしまわなければわかりません」
と老人が最後にいった言葉を意味深く聞いて暇《いとま》を告げ、若干の金を紙に包んで奉納し、なお老人のかいていた絵馬を一枚無心して、それをかついで帰路につきました。
兵馬はその絵馬をかついで、舞鶴城《ぶかくじょう》の濠《ほり》の近辺を通ると、どうしたものか、一頭の犬が、兵馬の前路をふさいでさかんに吠《ほ》え立てます。
「しッ」
兵馬が叱ったけれども、犬は容易に尾をまかないで、かえって目を怒らして兵馬に飛びかかろうとする、すさまじい勢い。
そこで兵馬は小癪《こしゃく》にさわりました。かつて、慢心和尚がいうことには、「人間は、犬に吠えられるようでは、修行が足りない」
兵馬は、この一言を思い出しました。なるほど、あの和尚は、随分奇抜な風采《ふうさい》で人の門《かど》に立つこともあるが、犬に吠えられたという例《ためし》を見なかった。人を見れば吠えつく悪犬でも、和尚がそばへ寄ると、鳴りをしずめてなついて来るのを、兵馬は実見して不思議なりとしたことがあります。
和尚にいわせると不思議でもなんでもなく、害心のないところに、敵意の生じようはずはないのだと説明する。
しかし、すべての人が犬に向って害心を持たずに近寄っても、犬のすべてが敵意を示さないという限りはない。そこに何かの修行があるのだと思いました。
今しも、こうがむしゃらに吠え立てられてみると、それが頭にあるだけ、兵馬は癪にさわってならない。つまり、この犬は、自分の修行を、頭から無視してかかっているのだ。小癪な犬だと思わないわけにはゆきません。
「狂犬《やまいぬ》が、あっちへ行った、人食《ひとくら》い犬《いぬ》が、あの若い侍に食いついてらあ」
ははあ、これは狂犬だ。だれかれの見さかいなく食いつくようになっている。あえて兵馬の修行を軽蔑しているのではない。兵馬は、それでやや安んじましたが、犬はいっそう烈しく、尾を振り、牙を鳴らして、兵馬に飛びかかって来るのです。
そこで、兵馬は、今かついで来た絵馬を肩からおろして、これを左手で縦に構えると、狂犬はさしったり[#「さしったり」に傍点]というようなわけで、猛然としてその絵馬の上へ乗りかかって来たのを、右の手を遊ばしておいた兵馬が、絵馬の下から犬の左の前足をムズとつかむと、ハズミ[#「ハズミ」に傍点]をつけて一振り振って投げました。
それは実に見事なもので、狂犬はクルクルと中空高く舞い上り、堤上《ていじょう》の松の枝をかすめて、濠《ほり》の真中へドブンと落ち込み、しばしは浮《うか》みも上りません。
「強いなあ、あの侍は」
歩みをとめた人々が驚嘆して集まるので、兵馬はきまりが悪く、絵馬をかかえて一散に逃げました。
十九
ちょうどその日の薄暮《はくぼ》、韮崎《にらさき》方面からこの甲府城下へ入り込んだ武者修行|体《てい》の二人の者。前に進んでいた逞《たくま》しいのが、何を思い出したか、刀の柄袋《つかぶくろ》を丁《ちょう》と打って、
「あ、今になって思い当った」
突然に叫び出したものですから、同行の丈《せい》の少し低いのがビックリして、
「何だい、何を思い出したのだい」
「あの、例の塩尻峠の……」
と前の逞しいのが、ちょっと後ろを振返りました。これはいのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の斬合いの一人、仏頂寺弥助であって、それに答えて、
「塩尻峠のしくじりを、まだ持越しているのかい」
それは書生で、医術を心得ているあの時の立会人、丸山勇仙であります。
斬られて介抱を受けた、二人がいないところを見れば、あの傷がもとで死んでしまったか、そうでなければ、まだ治療最中であろう。
「あれはな、あの男は、武蔵の沢井の机竜之助だ――」
「え、武蔵の沢井の……机?」
「そうだ、そうだ、それに違いない。それと知ったらば出ようもあるのだった」
仏頂寺弥助が何か思い出して、しきりに残念がるのを、丸山勇仙
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