かのように憂えている。できるならばこういう贋物《まがいもの》の黒頭巾を片っぱしからたたききって、少なくとも本物の剣法の見せしめにしてやりたいと腹を立つこともあるのです。
 そうして、一蓮寺のさかり場を離れて、また市中へ取って返すと、宿からはいくらもないところの町並に、
 「無眼流《むげんりゅう》剣法指南」
の看板を認めました。
 それを認めたのは天佑《てんゆう》のようなもので、日中なら、かえって通り過ごしたかも知れません。
 無眼流の名は今でこそあまり聞かないが、武術流祖録中に立派に存在する意義ある一流。
 町並になっている狭い間口の一方を、少しばかり道場構えにして、一方の畳の上ではしらが頭の一人の爺さんが、絵馬《えま》の中にうずまって、しきりに絵馬をかいている。その絵馬をかくための燈《ともし》の光が、取入れた看板に反射していたものですから、それで兵馬が「無眼流剣法指南」の看板を辛《かろ》うじて認めることができたのです。
 無眼流の名を珍しとする兵馬は、ここを素通りすることができないで、
「無眼流の道場というのは、御当家でございますか」
 腰をかがめて丁寧にものを訊ねました。
 その時に絵馬をかいていたおやじが、大きな眼鏡越しにジロリと兵馬を見て、
「はいはい」
と答えました。
「先生は御在宅でございますか」
「はい」
「御在宅ならばお目通りを致したいものでござります」
「はい、お前さんは何しにおいでになりましたか」
「無眼流指南の表札を拝見致しましたゆえに、先生にお目通りを願って、できることなら、一手の御指南にあずかりたいものと存じまして……」
「なるほど、それは結構なお心がけじゃ……しかし先生と申すのは、恥かしながらこのおやじめのことでござりまする」
「ははあ、あなた様が無眼流の指南をなされますか。それは何より」
 兵馬も少し案外に思いましたけれども、事実、こんなのがあるいは隠れたる本当の名人であるかも知れない。名人でないまでも、こういうところに意外な流儀の血統が伝わっているのかも知れない。何か相当の自信がなければ、かりにも一流指南の看板は出せないはずと、少しも軽蔑の色なく慇懃《いんぎん》に挨拶をしますと、おやじ、
「さあ、どうぞお通りなさい」
と言ったが、自分は少しも絵馬描きの手を休めるのではありません。
 お通りなさい、といわれ、兵馬は、ちょっとドコへ通って、ドコへ腰を下ろしてよいのだか、それに迷いましたが、やむなく道場の板の間に足を置いて、畳の方へ腰をかけて、
「御免下さい、無眼流とあるのを珍しいことに存じました」
「はい、当今は一刀流だの、心蔭流だのというのがはやりまして、無眼流などは一向はやりませぬゆえ、こうして、道場の看板だけはかけておりますが、弟子というものが一人もありませんでな……」
 おやじはあまり自慢にもならないことを、平気でこういいました。
「勤番の諸士方で、御指南をこいにまいるものはありませんか」
「ありませんね……ばかにしてね、このおやじをばかにして寄りつきませんよ」
「市中の若い者は……」
「年寄をなぐっても仕方がないといって笑っています」
「失礼ながら、ドチラで無眼流をお学びになりましたか」
「飛騨《ひだ》の高山で習いました……武者修行の途中、あの山中で峨々《がが》たる絶壁の丸木橋を渡りわずろうていると、そこへ目の見えない按摩《あんま》が来て、スルスルと渡ってしまったのを見て、両眼があって、多年武芸をみがきながら、両眼見えずして無心の按摩の得ている極意《ごくい》に及ばないことを知って、ついに無眼流の一流を発明したのは私ではございません、流祖の反町無格《そりまちむかく》のことですよ。その流れをくみまして、こうして無眼流の看板を掲げましたが、いっこう弟子がつきません。今日はお前さんがたいそう神妙に話をなさるから、お相手になって上げましょう」
と言うところは、いかにも勿体《もったい》がついていますから、
「なにぶん、お願い申します」
 このおやじ、むかし取った覚えの竹刀《しない》で立合ってくれるのだろうと期待していますと、おやじは絵馬をかく手をいっこう休めず、道具をつけて立合おうとする気色《けしき》がなかなか見えません。あるいは、こうして悪く落付いたり、勿体をつけたりするだけに自信があるのかも知れないと、兵馬は多少心中たのもしがっているところへ、おやじは、
「で、お前さん、わしはこうして仕事をしているから、遠慮なく打ち込んでおいでなさい、竹刀でも、木刀でも、真剣でもかまいませんから……」
 けれども兵馬は、この老人に打ってかかろうとも、斬ってかかろうともしませんでした。この老人を打ち取っても功名《こうみょう》にはならない。絵馬代用の鍋蓋試合《なべぶたじあい》をはじめたところで芝居にもならない。しかし
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