ぶん、池田といった神楽師の一行では長老株――武州の高尾山では、七兵衛と泊り合わせた中の一人によく似ている。
 しかし、かの白面にして豪胆なる貴公子はここにはいません。
 時ならぬ時に、神楽師の一行が、つれづれな温泉宿に舞い込んだという噂《うわさ》を聞いて、浮気者の後家婆さんはいたく喜んで、早速、明朝になったら、ひとつやらせて楽しみましょう……と、お湯の中でお雪に話しました。この婆さんの考えでは、多分、越後の国の角兵衛獅子が、国への戻りに舞い込んだものとでも思ったのでしょう。翌日は早速、人を以てかけ合ってみますと、例の一座の長老が、それを聞いて、ニッコリ笑いながらこう言いました、
「われわれどもは角兵衛獅子ではございません、神楽師であります。古《いにし》えの神楽は神を楽しませ、同時に人を楽しましめんがために行いました。近代の芸術は、神を離れて人間が楽しまんがために作られます。これは悪いことではありません、人が楽しみを求めるのは自然です、自然にその慾求が起れば、これを与えるものの起るのも自然であります。よき慰安を与えらるる時に、人間の気象が快闊になり、高尚になるのも道理であります。そこにわれわれ神楽師の、神に対し、人間に対する御奉公も起って来るのでございます。ひとり悪いのは、人間が要求せざるものをほしいままにこしらえて、無理押付けに人間に売ろうとすることであります。それをやるには誘惑を試みなければなりません、剽窃《ひょうせつ》をも試みなければなりません。近代の芸術はそこで堕落が始まりました。かれらは作物《さくぶつ》を模倣し、盗用することは平気です。そうして無用な宣伝と、誘惑と、買収とを以て、人間にその芸術を売りつけようとするのです――われわれは、その芸術商売人ではないつもりですが、御所望なら何か一曲ごらんに入れてもよろしい」
という返事で、後家さんもちょっと二の句がつげません。
 この神楽師の一行は、早々辞し去るかと思うと、案外にも御輿《みこし》を据《す》えて、逗留の気色《けしき》を示しているのも気が知れない一つ。

         十八

 月見寺を出て、甲府の城下についた宇津木兵馬とお銀様。
 甲府は兵馬にとって最も思い出の多いところ。お銀様にとっては故郷も同様のところ。
 城下に宿を取って、その晩、兵馬は、ひとり町を歩いてみました。
 駒井能登守もいなければ、神尾主膳もいない。南条力も、五十嵐甲子雄も昔のこと。お君も、米友も、ムク[#「ムク」に傍点]犬も、暫くはここの天地に生を寄せていたことがあり、女軽業《おんなかるわざ》のお角の一行も、ここで笛、太鼓を鳴らしたことがありました。
 しかし、それはみな夢のように流れ去って、残るところの山河と、町並だけは相も変らず。兵馬の眼で人間がその昔の時よりも暢気《のんき》に見えるのは、自分にさしさわりない他人ばかり残っているというせいでもあるまい。たしかに甲府の市民にとっても、その昔のような辻斬の脅威がなくなってしまったことだけでも、生命《いのち》のゆとりがのびているのかも知れないと思われるほどです。
 柳町の一蓮寺。その昔、お角の一行が女軽業を打ったところへ来て見ると、そこは相変らず賑やかで、甲府人の行楽のところ。
 以前、お角一行の軽業のあったところには、けばけばしい芝居の興行がかかっているらしい。兵馬はその方へ進んで見ると、何かは知らないが人だかりのする絵看板。
 近づいて見ると、思いきって大きな看板に、黒頭巾《くろずきん》をかぶった黒いでたち[#「いでたち」に傍点]の侍の絵姿。
 兵馬は、それを見てゾッとするほど嫌な気持がしました。
 このごろは、世間が殺伐《さつばつ》だから、芝居にも、切ったり張ったりがはやるのか知ら。
 一流の芝居はそうでもないが、年中、活動しているお茶ッ葉芝居は、へらへら役者をかり集めては、無茶に人殺しをやらせる。
 ことに沢村宗十郎が、宗十郎頭巾をかぶりはじめてから、へらへら役者共が争ってこの頭巾をかぶりたがり、切れもしない刀を抜いては嘔吐《へど》の出るような見得《みえ》を切って得意になっているのが、田舎廻《いなかまわ》りならとにかく、江戸のまんなかではやっている。兵馬は至るところで、この黒頭巾をかぶった、駈け出しのへらへら役者が刀を抜いて、へんな見得を切っている絵看板にでっくわして、自分は通人でもなんでもないが、江戸人の趣味も堕落したものだと思う。そうでなければ清元《きよもと》や常磐津《ときわず》で腐爛《うじゃじゃ》けている御家人芝居。ここへ来ても、こんなものを見せられるのか。こんなものをこしらえて持ち歩く興行師の俗悪もさることながら、こんなものを見て興がる見物が情けない。
 兵馬は正直だから、こんな下等な芝居の横行が、剣法の神聖を冒涜《ぼうとく》する
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