持後家さんは、若い男につぎ込むのだが、あの婆さんは若い者の生血《いきち》を絞る――若い者だけではない、あの調子だから、目をつけた男は大抵ものにしてしまう。この夏中もどのくらい、聞苦しい噂を聞いたか知れない。そうして現在も……と浅吉は口のあたりをひきつらして、現在にも何か容易ならぬ恨みを持っているのがこらえきれないらしい。お雪はなお一生懸命にそれを慰めて力をつけ、いたわりいたわりして、とにかくも宿の方へと連れて帰りました。
 その帰り道、茶堂橋まで来た時分、お雪は何心なく小梨平の方を仰ぐと、そこの坂道を、こちらへ人の下りて来るのを認めました。同じような笠が揃って四五名、まだ士農工商のいずれともわからないが、こちらへ向いて四五名が隊をなしてやって来る姿が、豆のように見えることは確かです。
 もう、人が入って来ないはずの白骨の温泉。集まった人は、この間、綺麗《きれい》に解散をしてしまったはずの温泉。これから春、雪の解ける時までは、人跡の絶ゆるということを予想していたこの温泉へ、今となって入り込んで来るのは穏かではないようにお雪が感じました。何か特別の目的があり……そうでなければ――お雪がふと思い当ったのは、もしや、あの塩尻峠の時の侍たちがあとを慕って仕返しに来たのではあるまいか。
 そう思って見ると、今し、山道を下って入り込んでくる四五名の人数が、お雪にとっては容易ならぬ脅威のように思われてなりません。そこでなんとなく胸が落着かないで、振返り振返り、茶堂橋を渡ると、右の人たちの姿も、木の間に隠れてしまいました。
 ほどなく、その山かげから歌をうたう声が起りました。遠く響いて来る歌の声は聞えるが、それが何の歌であるかわかりません。ちょっと耳を傾けていたお雪は、ややあって、ああ詩を吟じているのだとさとりました。
 してみれば、これは侍だ。農工商、或いは山方《やまかた》へ出入りの木樵《きこり》炭焼《すみやき》で、詩を吟じて歩くようなものはないはず。
 侍ならば、まさしく塩尻峠の連中があとを慕うて来たのだ。どうしよう、あの人たちの立退くまで、わたしたちは隠れていなければならない。一日や二日ならば隠れおおせるが、もしあれがわたしたち同様に、冬籠《ふゆごも》りをするつもりで来たとすればどうしよう、ほとんど逃れる道はない――
 お雪は、一緒につれた浅吉の身の上よりは、自分たちの近い将来が心配になって、急いで宿へ帰り、浅吉をその部屋へ送り届けて、自分たちの部屋の障子をあけようとすると、中からあわただしくそれを押しあけて、
「お雪さん、お帰りなさい」
と飛んで出た後家さん。その上気した顔と、息のはずんだあわてぶりが、この人らしくもないと思いながら、
「ただいま帰りました」
 そうして一歩なかへ入って、枕を横にしている竜之助の顔を見ると、それが人を斬ったあとのように冴《さ》えておりました。
 幸いにして、山を下って来た笠の一隊は、お雪が心配したほどのものではありませんでした。木曾路を取って京都へ帰ろうとした神楽師《かぐらし》の一行が、ふと道を間違えて、こちらへ入り込んだからやむを得ず、安房峠《あぼうとうげ》を越えて、飛騨《ひだ》へ抜けようとのことです。
 お雪は、その由を聞いて安心しましたが、疑えば疑えないことはない。第一木曾路を通るものが、ここへ道を間違えたとは間違え過ぎる。しかしそれとても昔の歴史をたどってみれば、全く無理な間違え方ともいえないので、この一行が宿へ到着して、一浴を試みてから炉辺《ろへん》へかたまっての話に、
「上方《かみがた》から東国への道は、この辺が祖道になるのだ。大同年中に伝教大師が衆生化導《しゅじょうけどう》のためとて東国へ下る時に、上神坂越《かみこうざかご》えとあって、つまり飛騨の高山あたり、笠ヶ岳の下、焼ヶ岳の裏を今の上高地を経て、あの島々谷を松本平方面に出られたに違いない。伝教大師もこの道ではよほど難渋されたと見えて、広済《こうさい》、広極《こうきょく》という二院を山中に立てて、後の旅人を憩《いこ》わしむるようにされたとのことだが、その時代、路らしいものはあったにはあったと思われる。しかし、なにしろ今にしてもこの有様だから、大同年間のことは思われるばかりだ。高僧智識が捨身無一物の信念を以て通るか、しからざれば、天下に旅する豪気の武士《もののふ》でなければ覚束《おぼつか》ない。上神坂越えの難たることは、まさに天に上るの難よりも難かったに相違ない」
と説明するところを見れば、地の理にも、歴史にも、そう暗い人たちとは思えません。
 それほどの知識がありながら、わざわざここへ迷い込む由もなかろうではないか。
 その説明者を見ると、ついこの間、芝の三田の四国町の薩摩屋敷で、南条力を相手に地図を示して、飛騨の国の国勢を説いていた、た
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