しまいました。
立聞きをすれば三尺下の地の虫が死ぬというたとえがありますから、お雪はそれを聞きたくないと思いましたけれども、こうなってみると、後家婆さんが得意になって浮《うわ》ついた話の最中へ入るのは厭《いや》な気がしますし、そうかといって、再び浅吉のところへ引返す気にもなりません。
そこで、お雪は気をかえて、ひとり湯殿へ下りて行きました。
十七
お雪が湯から上って来た時分には、後家さんも帰ってしまっていました。けれど、それから後、この後家さんは、いよいよお雪になつこくして、お雪も悪い心持はなく往来しているうちに、どうも後家さんがお雪を、浅吉に近づけよう、近づけようとしていることがわかりました。
前の時のように、お雪が来ると、自分は座を外《はず》して、浅吉と二人だけを残して置くのが、心あってするように、お雪にも気取《けど》られるほどになりました。
そうかといって、お雪は怖気《おぞけ》をふるって浅吉を毛嫌いするわけでもありません。また別段に不憫《ふびん》がるというのでもなく、万事を心得て、あたりまえに附合っていられるほど、お雪は素直な気質を持ち合わせていました。
それに反して、浅吉の方の躍起《やっき》となる有様は、日一日と目立ってゆくのです。
ある時、お雪は湯から上って帰ると、廊下でただならぬ物争いを聞きました。
それは珍しくも、あの柔順な浅吉が、主人の後家さんを相手に、一生懸命で何事をか言い罵《ののし》っているところです。
今日も、たくんでした立聞きではありませんが、行きがかり上、耳に入れないわけにはゆかないので、困っていると、
「おかみさん、あなたという人はほんとうに罪な人ですよ……今だから申しますが、先《せん》の旦那様のお亡くなりになった時だって、ずいぶん噂がありましたよ。穀屋《こくや》の家には今でも青い火が出ると、いわない人はありませんからね」
「ナニ、何ですって。人聞きの悪いことをお言いでないよ」
「申しますとも。あなたぐらい、性悪《しょうわる》の、男ったらしの、罪つくりな女はありませんよ。この夏中だってそうでしょう、わたしが見て見ないふり[#「ふり」に傍点]をしていれば……」
「おや、わたしはお前に監督されなけりゃならないのかい、お前が見ているところで、何かしちゃ悪いのかい」
「だッて、少しは遠慮というものがございましょう、私を前に置いて……」
「だからいってるじゃないか、何を私がお前に遠慮しなけりゃならないの……よく考えてごらん、身分を考えてごらん、わたしは主人、お前は雇人じゃないか」
「…………」
「口幅ったいことをおいいでないよ」
柔順な若い男は、肥《こ》え太《ふと》った浮気婆さんのために、頭から押しつぶされています。
聞くとはなし、それを聞いたお雪は、なんというかわいそうな人だろう、またこのおばさんも、なかなかのしたたか者だと思わないわけにはゆきません。
その日の午後、お雪は花を集めて部屋を飾ろうと思って、近いところの尾根から林の中へ入りました。
無心で花をたずねて、林の中へ進んで行くと、ふと行手でガサリ[#「ガサリ」に傍点]と音がしましたので、ハッと驚きました。もしや、あんまり深入りして、熊にでもでっくわしたのではないか。
とおそれて、その音のした林の奥を見ますと、幸いに熊ではありません。たしかに人間の姿であります。先方では気がつかないが、こちらではよくわかります。林の中を、あちら向きになって、うろうろたどって行くのは、まぎれもない、男妾の浅吉の姿でしたから、お雪は、不安な思いでじっとそれを見送りました。
暫く様子を見ているうちに、お雪がじっとしていられなくなって、顔色を変えて、一散《いっさん》に浅吉のいた方向に向って馳《は》せ出したのは、魂を失うたように、うろうろしていた浅吉が、今しも一本の木の枝を選んで、そこへ紐をかけたのはまさしく縊《くび》れて死のうとの覚悟に相違ありません。
あなやと、お雪はかけよって、今しも紐へ両手をかけた浅吉の身体《からだ》に抱きつきました。
お雪に抱き留められた浅吉は、それを振り解《と》くほどの気力もなく、ぐったりと草の上へ倒れて、さめざめと泣きました。
それを慰めるお雪。追々力をつけられて、死ぬまで思いつめた心の苦しみをお雪に訴える浅吉。つきつめてみると、それは嫉妬からです。あの浮気婆さんとの今までの関係を、浅吉はお雪に向ってことごとく打明け、あの後家さんの容易ならぬ乱行を、こと細かく語って聞かせました。旅役者か何かとくっついて、先《せん》の夫を毒殺したという専《もっぱ》らの評判。そのほか浮名を立てられた相手は今日まで幾人だか知れないが、いいかげんおもちゃにした後は、突き放したり、上手に切り抜けたりして――世間並みの金
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