吉にたのむと、
「どう致しまして、私なんぞ……」
浅吉がハニかむのを、後家さんは叱るように、
「教えてお上げなさいよ」
「どうぞ、おたのみ致します」
お雪も面白半分に、浅吉にたのむものですから、浅吉がいよいよ迷惑がり、
「いいえ、ダメですよ」
「そんなことをいわずに踊って見せてお上げなさい……ねえ、お雪さん、あなたも、ただ教わっちゃ駄目よ、一緒に立って、手を取って教えてもらわなくちゃ」
「いいえ、わたしは見せて教えていただけば覚えますから」
「そんなズルいことをいって駄目よ、教わるのに横着をしちゃいけません」
「だって、できもしないのに、きまりが悪いんですもの……」
「ナニ、きまりが悪いことがあるもんですか、若い同志で充分に踊りなさい、わたしが、ここで歌いますから……」
後家さんがこう言って、二人を立たせようとしたけれども、浅吉はいよいよハニかんで立とうとはせず、お雪も無論手を取ってまで、教えてもらおうとは思いません。
そこで、木曾踊りの実演は中止の形となりましたが、
「若い人は、遠慮があるからいやよ」
と言って後家さんが急に立ち上って、廊下へ出ました。浅吉と二人ばかりあとに残されてみると、急に座敷がテレてしまって、なるほど、あの陽気な人が一人いるといないでは、こうも違うものかと思わせられるくらいです。
それでも、お雪は急に暇乞《いとまご》いをして立ち出でるわけにもゆかずに、後家さんの戻るのを待っていたが、その戻るのが意外に手間取《てまど》れるので、もどかしく思いました。多分お手水《ちょうず》にでも行ったのだろうが、それにしては長過ぎるとお雪が待ちあぐむ頃には、浅吉が落着かなくなって、しきりに気を揉んでいる様子が、ありありと見えますから、お雪は、
「おばさん、どうしたんでしょう、帰りが遅い」
いらいらしていた男妾の浅吉は、やがて声を低くして、
「お嬢さん――」
と、お雪のことを呼びました。
「はい」
お雪は、この男にも同情を持っているのです。同情というものは、広い意味の同情で、同情の中に異性の思いやりを含むという次第では無論ありません。いわばお雪は誰に対しても親切な娘であります。
「あなたのお連れのあのお方は、あれはお兄さんですか……」
「いいえ、兄ではありません、親類の……」
とお雪が煮えきらない返事をしました。
「お目が悪いんですね」
と言いますと、
「ええ、煙硝《えんしょう》の煙で、お目を悪くしてしまったのだそうですよ」
「それはいけません」
「どういうわけですか、わたしもよくは聞きませんでした」
二人がボツリボツリとこんな問答をしている間も、席を外《はず》した後家さんは戻って来ません。いったい、どこへ何しに行ったのだ。お雪もようやくもどかしくなりました。
「どうしたんでしょう、おばさん帰りが遅いですね、わたし、お暇致しましょう」
お雪も、若い男と二人さしむかいでは気が置けると見えて、帰ろうとすると、
「まあ、いいじゃございませんか、お話しなさいまし、もうすぐ帰りますよ」
「それでも……では出直して参りましょう」
「いいえ、よろしうございますよ。それからお嬢さん、まだ本がいくらもございますから、お持ち下さいまし」
「そうですか、それではあとでお借り申しに上りましょう、御免下さいまし」
と、そこそこにお暇乞いをしてお雪は帰りますと、まもなく、自分の廊下のところに立ち止まりました。
その中でヒソヒソと話し声が聞えたからです。はて、久助さんは下で煙草切りをしているはず。あとは先生一人でいたはず。そこでヒソヒソと話し声がしたものですから、お雪が足をとどめたのも無理はありません。
「実川延若《じつかわえんじゃく》の石川五右衛門、ようござんしたねえ」
と、詠嘆的にいったのは、例の後家さんの声でありました。
帰って来ないはず。ここで話し込んでいたのだもの――
それにしても、座興半ばで席を外して、人の座敷へ来て、ゆるゆると話し込んで、しかも役者の噂《うわさ》、おばさんも暢気《のんき》過ぎると、お雪も少し呆《あき》れていると、
「そうすると、隣りの桟敷《さじき》にいた若い人のいうことがいいじゃありませんか、あれでは五右衛門がいい男過ぎる、五右衛門という奴は悪人だから、あんないい男にこしらえてはいけない……ですとさ。悪人をいい男にこしらえては、なぜいけないんでしょう。ですから、わたしがいってやりました、悪人はみんないい男ですよ、いい男だから悪人にされてしまうんですって。醜男《ぶおとこ》だけが誰もかまい手がないから、それでやむを得ず善人でいられるんですって。ですから大抵の女は、善人よりも悪人に惚れますよ、といってやりました」
後家さんは、水っぽい調子で得意になって、こんなことを言っていましたから、お雪がいっそう呆れて
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