て嫉妬に似た気持で、後家さんを引きつけようとあせる気色《けしき》が、ありありと見え出したことです。
 この二組のほかに、お客というもののない今日《いま》の白骨の全温泉で、おたがいが一家族のように親しくなるのはあたりまえで、おたがいに出入りの密になるのもあたりまえですが、後家さんが、お雪と竜之助のところへ話しに行くと、そのあとで、男妾の浅吉が、額に苦しい汗を出して、やきもき悶《もだ》えはじめます。そうして、ある時は一生懸命の思いで、後家さんに向ってこういうことを言いました、
「おかみさん、うっかりあの座敷へ行ってはいけませんよ……あの久助さんや、お雪ちゃんたちと、懇意にするのはようござんすが、あの浪人者みたような人に、近寄らないようになさいまし」
 そうすると、色気たっぷりの後家婆さんが、
「何ですね、お前、そんなわけにゆくもんですか、この一つ家にいながら……」
と取合いません。
「それでもね、おかみさん、あの人は、どうも気味の悪い人ですから、御用心なさらなくちゃあ……」
「気味の悪い人……そりゃ御病人ですもの。お目が悪いのに、身体《からだ》が少し疲れていらっしゃるんですよ。つきあってごらん、なかなかよいところのある方ですよ」
「いいえ、おかみさん……」
といって男妾《おとこめかけ》の浅吉は、唾《つば》を呑み込んで、何かいおうとして、いうのを憚《はばか》りましたが、思い切って、
「おかみさん、あの方は人殺しをした方ですよ、そうに違いありません、私はそばへ寄ってゾッとしました。いいえ、証拠を見たわけじゃありませんが、たしかに人を斬って身を隠すために、こちらへ来ているんですよ、どうしても私にはそうとしか思われません。ですから、あの人のそばへ寄ると、いつも斬られてしまうようにばかり思われてなりません。ですから、おかみさん、あなたも斬られないようになさいまし」
「何をいってるんですよ、この人は……人様をつかまえて、そんなことをいってごろうじろ、それこそ本当に斬られる種をまくようなものじゃないか。わたしぁ、どんな人だってこわいと思わないよ、こっちの出様ひとつじゃないか、出様ひとつでどうにでもなるものだよ」
「ですけれど、おかみさん、あの方は殺すといったら、キッと人を殺しますよ、あの人情につめたい顔の色をごらんなさい」
「ほんとうにどうかしているよ、この人は……誰か、わたしたちを殺すといいましたか」
「いえ、いえ、そういうわけじゃありませんけれど、盲目《めくら》でいながら、ああして刀をそばへ引きつけておく人には、油断がなりません」
「お前、何かあの方に失礼なことをいって、脅《おど》かされたんじゃないの……」
「いえ、いえ、決してそういうわけじゃございません、おかみさんのお身を心配するあまり、ついよけいなことを申し上げました」
「付合ってごらん、あれで、なかなか苦労人で、世間を見ておいでなさるから。ポツリポツリ話してゆくうちに、だんだん味が出て来るようなお方ですよ、こわいこともなにもありゃしません」
「ですけれども、おかみさん……私が可愛いと思うなら、私に心配をさせないで下さい。ね、私は、いつおかみさんが、あの人に斬られるか……それを思うとヒヤヒヤしつづけですから」
「ほんとうにお前は意気地のない人だ……さあ一つお上りよ」
 後家さんは、炬燵《こたつ》の上の杯を取って男妾に与えました。
 そこへお雪が廊下の外からやって来て、
「おばさん」
「はい、お雪さん、お入りなさい」
と言って、炬燵の上の酒の器《うつわ》だけを下へおろしてしまいますと、お雪は、
「さきほどは有難うございました、お邪魔をしてもようございますか」
「よいどころじゃございません、さあ、お入りなさいまし」
「御免下さい」
 お雪が入って来ると、後家さんは炬燵の一方へ座蒲団《ざぶとん》を出して、ついでに茶棚の上の蕎麦饅頭《そばまんじゅう》のお盆を炬燵の上へ置きました。つまり、お雪が入って来たために、酒と蕎麦饅頭とが炬燵の上で交迭《こうてつ》した結果になりました。
「一つおつまみなさいな」
「どうも御馳走さま」
 三人が炬燵を囲んで世間話がはじまると、やがて先日の木曾踊りのことになり、
「おばさん、まだ、わたしあの歌がよく覚えきれませんから、教えて頂戴な」
 後家さんは喜んでお雪に向って、例の「心細いよ、木曾路の旅は、笠に木の葉が舞いかかる」という歌の文句からはじめて、合《あい》の手《て》までも教え、はては自分が得意になって、かなりの美音でうたい出しましたから、一座もなんとなく陽気になってきました。
 歌を教えてしまうと、後家さんは、
「踊りはこの人が上手だから、教えておもらいなさい」
と男妾《おとこめかけ》の浅吉を指さしました。
「どうぞ、教えて下さい」
とお雪も、それに合わせて浅
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