の身が熱くなって、ドロドロにとけてしまいそうなんでございます、眼がまわります、苦しうございます」
五十を過ぎてあぶらぎった好色婆のために、取って押えられて、人目も恥じず、悶《もだ》え苦しむ有様は、むしろ悲惨の極であります。
久しぶりで竜之助の顔に、微笑が浮みました。
「何がそれほど苦しいのです、そんなに人を苦しめる奴は、懲《こ》らしておやりなさい」
「全く……」
男は苦しい声で叫びました。
「殺してしまいたいんですけれども、私は意気地なしでございます」
意気地なしは今はじまったことか――
その時、思わず竜之助の血が熱くなりました。一番その淫乱の後家をきってやろうかな。五十過ぎたとはいえ、脂《あぶら》ぎって飽くことを知らぬ女の肉体。きってまんざらきりばえのないこともあるまい。
そうなると、いよいよ冷然たるもので、竜之助は冷罨法《れいあんぽう》をつづけながら、
「これ、若い衆……」
「えッ」
男妾が、そのつめたい呼び声にヒヤリとします。
「お前は、本心からその女がいやなのか」
「いやでございますとも――死ぬほどいやでございます」
「その女が死ねばお前は助かるのだな、お前の力で殺せれば、殺したいのだが、その力がないとこういったな」
「ええ、その通りでございますとも、自分が殺されるか、あの婦人を殺して助かるかの境でございますが、私は意気地なしで、とても人を殺すことなんぞはできませんから、みすみすあの婦人にいびり[#「いびり」に傍点]殺されてしまうんです」
「よろしい、それでは、わしがお前の代りに、その女を斬ってみよう」
「えッ」
その時、男妾はゾッとして、
「えッ、ただいま、何とおっしゃいましたか」
竜之助の、たったいま言った一言を思い返そうとして、まずふるえ[#「ふるえ」に傍点]が先に立ちました。
冷罨法を施している竜之助は、二度とはそれに答えようとせず、男妾のみが、無暗にふるえ出してせきこみ、
「私に代って、あなた様が、あの婦人を斬っておしまいになる、殺して下さる、それは本当ですか。それは怖ろしいことです、その怖ろしいことを、あなた様が、私に代って、そうして……」
男妾は自分でせきこんで、自分で咽喉《のど》をつめてしまいました。
「本当でございますか。人を殺せば自分も助かりませんね、これを御承知でございますか。色事は冗談でございましょうとも、人を殺すのは真剣でございます……私はいったい、何を、あなた様に申し上げましたろう、何をおたのみ申したんでしょう」
一旦、息のつまった男妾はこういって、眼をきょろきょろ[#「きょろきょろ」に傍点]させながら、極度におちつかない心で四方《あたり》を見廻すと、竜之助のかたわらに大小の刀があることが、著《いちじる》しく脅迫的に眼にうつったと見えて、また青くなりました。ほとんど取返しのつかないことをやり出したもののように――
一切、その狼狽《ろうばい》に取合わない竜之助の冷やかさが、ようやくこの男妾を仰天させました。
「ねえ、あなた様、ただいま、何を申し上げましたか、それは一時の愚痴でございますから、どうかお取消しを願います、お気にさわりましたら、御勘弁下さいまし。なあにほんの取るに足らない色恋の沙汰でございますから、私さえ逃げ出せばそれでいいんでございます。生かすの殺すの、あなた、水の出端《でばな》や主《ぬし》ある間の出来事とは違いまして、生かすの殺すの、そんな野暮なものじゃございません……」
しかし竜之助は冷罨法《れいあんぽう》を施しつつ答えず。男妾はいても立ってもいられないように、座敷の中を飛び廻って、
「さきほど、あなたのおっしゃったことを、もう一度お聞かせ下さいまし、私に代ってあれを斬ってみようとおっしゃったのは、御冗談《ごじょうだん》でございましょうね。もし、御冗談でございませんでしたら、お取消し下さいまし。あやまります、あやまります、このように……」
それでも竜之助は返事をしませんでした。返事をする必要がないからでしょう。そこで男妾はまた立ち上って、
「本当のことを申しますと、私もあれが好きなんでございます、年こそ違っておりますけれど、たまらない親切なところがあるんでございますから……生かすの殺すの、それはあなた、一時の比喩《たとえ》、夫婦喧嘩同様な愚痴をお聞かせ申しただけなんでございますから、どうぞ……」
竜之助のつめたい面《かお》に、抉《えぐ》るように微笑ののぼって来たのはその時です。
十六
山地は寒《かん》の至ることも早く、白骨《しらほね》の温泉では、炬燵《こたつ》を要するの時となりました。
この頃、男妾の浅吉は、別な心持で落着かなくなりました。
というのは、後家さんの圧迫をのがれよう、のがれようと苦しんでいた男妾が、かえっ
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