が解《げ》せない顔をして、
「覚えがあるのか」
「あるとも、あるとも……噂《うわさ》だけで大いに覚えがあるのだ、武州沢井に机竜之助の道場があって、一種不思議な剣術をつかい、人がそれを音無《おとなし》と名づけるという評判を聞いていたから、一度、その門を驚かしてみたいと思っていたのだ」
「武蔵の沢井とは、どちらの方面だ」
「多摩川の奥の高地で、江戸から甲州裏街道、つまり大菩薩越えをするその途中、御岳山の麓あたり。あの辺は、むかし関東の野を追われた平将門《たいらのまさかど》の一族と、甲州武田を落ちて土着した子孫が住んでいる。それで剣術は、甲源一刀流が流行《はや》っている。それだ、その男だ、あれは……」
と言って、仏頂寺弥助が先達《せんだっ》て、塩尻峠の不思議なる盲剣客のことを頻《しき》りに思い返し、
「それと知ったら、また出ようもあったものを……」
と重ね重ね残念がる様子。
そこで、まだ呑込めないらしい丸山勇仙のために、仏頂寺弥助は、沢井道場、音無の剣術ぶりの物語をし、今その主人公は、行方不明になって、その道のものの問題とされていることを話して聞かせると、丸山勇仙が、
「ははあ、そういうわけで、そういう人物であったのか……なるほど」
と幾度もうなずきましたが、つづいて、
「それで、机竜之助という男はいったい、いい男なのか、わるい男なのか」
「何だ、それは――」
「つまり、机竜之助は美男子であったか、それとも、醜男《ぶおとこ》であったか、それを聞いているのだ」
「妙なことを聞くじゃないか」
「そこが問題だ」
「誰がそんなことを問題にしている」
「いや、それが、なかなかの大問題になったことがあるのだ」
「どうして、それをお前が……第一、机竜之助なるものの存在を、ただいま、拙者の口から初めて聞いたお前が、あの男の容貌の美醜を論ずることでさえが奇妙なのに、それが問題になっていたというのはどこで……いつのことだ。してみればお前は、その以前から竜之助なるものを知っていたのか」
「知っていたのだ……知っていたのをお前からいわれて、今になって気のついた一人だ」
「いつ、どこで」
「大和の国、十津川のあの騒ぎの時よ。実は拙者もあの時、あの乱軍の中へまぎれ込んでいたものだ……その節、たのまれて竜之助なるものの人相書を書いてやったことがある」
意外にも丸山勇仙が十津川話を持ち出して、その時、よそながら机竜之助にひっかかりのあったようなことをいう。
仏頂寺弥助が、足を踏みとどめました。
丸山勇仙が語りつづけていうことには、
「十津川の乱が平《たいら》いで後、藤堂方にたのまれて、拙者は医者の役目をしたり、書記のような真似をしていたが、その時、たのまれて人相書を幾枚も作った……そのなかに、ある少年が親とか兄弟とかの敵《かたき》だといって、人相書を註文して来たから、それを作ってやったのだが……その人の名が、たしか机竜之助、それで甲源一刀流の遣《つか》い手《て》と覚えていた。実は、乱徒のめぼしいものの人相書を幾枚も作らせられた後だから、大抵は忘れてしまっているはずだが、それだけを忘れないでいるのは、つまり、その時に問題が起ったからだ――」
「その問題は?」
「その問題が、それ、机竜之助は美《い》い男か、醜《わる》い男かという問題なのよ」
「ばかばかしい問題じゃないか」
「ばかばかしくないのだ、解釈のしようが人によって全然ちがうのだから……まず拙者がいわれるままに一枚をかいて見せると、それを見た一人が、机竜之助を、こんな美男子にかいてはいけないというのだ。けれども、いわれた通りにかけばこうなる――と主張したところが、そんな美男子ではいけないとおそろしい権幕、拙者のかいた下書をいじくり散らして、勝手な訂正を試みたものだから、それによって新たにかき直してみると、他の方面からまた苦情が出たのに、竜之助は、こんな尖《とんが》った貧相《ひんそう》な男ではないと。こいつには拙者も弱ったのだ、現在その人を見たわけではないのだからな。人の言葉によって、想像を助けられて描くのだから、どっちに附いていいかわからない。拙者がわからないばかりでなく、その席でまた問題が持上ってしまった。それでね、いったい、美男子の標準というものは、どういうのだと根本問題にまで立入って来たが、結局美醜は問題でないが、あの男が非常な魅力を持っていることは争われない、この絵にはその魅力が少しも現われていないということで、また新たに問題が湧き出した。それから拙者がいってやった、拙者は画家ではないから、その魅力なんというものは描き出せないから宜《よろ》しくたのむといってやったら、問題はまあそれだけになったが、不服は両方に残っている。人情というものは妙なものさ、竜之助非美男論者は、ほとんど絵に向って嫉妬のような
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