ければならぬというのが、当時の気概ある公卿の憂慮でありました。
 京都の公卿をして、再び護良親王《もりながしんのう》の轍《てつ》を踏ましむるなかれという気概のために、憎まるるものがないとはかぎらない。烈しく憎まるる時は暗殺される。幕府と勤皇と両方面に敵と味方を持っていて、その味方に対してまた備うるところがなければならない。しかも位高くして、実力の乏しい当年の公卿の地位もまた、多難なるものがありました。
 その充分なる気概を保留するには、こうして山林にのがれて、舞踊に隠れるの必要があったかも知れない。それとも単にお公卿さん気質《かたぎ》の罪のないやんちゃ[#「やんちゃ」に傍点]かも知れません。
 この怪異なる総踊りが済んでしまうと、白面にして英気風発の十八九歳とも見られる貴公子は、ひとり赤地の錦のひたたれ[#「ひたたれ」に傍点]を着て、白太刀《しらだち》を佩《は》いたままで、羅陵王を舞いました。
 羅陵王を舞い終るや、その場へ一座をさしまねいて、疾風のような勢いで荷物を整理させ、以前のお神楽師の旅のなり[#「なり」に傍点]した十余名のものに守られて、時を移さずこの屋敷を立退いてしまいました。

         十二

 高村卿の一行が引払ってしまうと、例の南条力と五十嵐甲子雄は、薩摩屋敷の幹部のものと相談して、数名の人夫をひきい、その人夫に荷物をかつがせて、飛ぶが如くにこの屋敷を立ち出でたのは、多分高村卿一行のあとを追いかけるものと思われる。
 それは途中で相《あい》合《がっ》したかどうか知れないが、ともかく、相州荻野山中の大久保長門守の陣屋が焼打ちされて、かなり多量の武器と金銭を奪われたのは、それから十日ほど後のことであります。
 そうして高村卿の一行も、それを後から追いかけた南条、五十嵐らの一行も、薩摩屋敷へは戻って来ないところを見ると、この両者が議論をたたかわした通り、甲斐か飛騨かの方面へ、落合ったのかも知れません。
 そう思って見ると、この間少しばかり途絶《とだ》えていたあやしの神楽太鼓が、またしても、三国《みくに》の裏山にあたって響きはじめたことです。そうして夜ごとに、山の奥へ奥へと響き進んで行くようです。
 甲武信《こぶし》の下に山ごもりをしていた猟師の勘八がこの響きを聞いて、
「またはじめやがったな」
 けれども、この響きを向《むこ》う河岸《がし》の太
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