、庭を打通して見物のできるような仕組みです。
 さて、囃子方《はやしかた》の座がととのう。太鼓があり、鼓《つづみ》があり、笛があり、笙《しょう》、ひちりき[#「ひちりき」に傍点]の類までが備わっている。
 そうして、花やかな衣裳をつけて、この十数人が、われ劣らじと踊り出でました。
 この踊りは、一種異様なる見物《みもの》であります。古代の雅楽《ががく》の如く、中世の幸若《こうわか》に似たところもあり、衣裳には能狂言のままを用いたようでもある。
 それに、不思議なのは、一人一役がみな独立して、個々別々に踊っているので、時代と人物には頓着なく、翁《おきな》のとなりに猩々《しょうじょう》があり、猩々のうしろには頼政《よりまさ》が出没しているという有様で、場面の事件と人物には、更に統一というものはないが、拍子《ひょうし》だけはピッタリ合って、おのおの力いっぱいにその個性を発揮して踊りぬいていることです。
 薩摩屋敷のものは、このめざましい見物《みもの》を見せられて盛んによろこびましたが、何ものの特志で、こうして不時に、われわれに目の正月をさせてくれるのだかわからないものが多かったのです。それからまた、一行の神楽師に対する豪傑連中のもてなしが、甚だ丁重《ていちょう》で、いわゆる芸人風情にするものとは行き方がちがっていることを、不思議にも思いました。
 これは申すまでもなく、お銀様が、武蔵と甲斐と相模あたりの山の中で、思いがけなく見せられた一団の舞踊とおなじことで、その指揮をつかさどっていたのも、今で思い合わせると、ここで高村卿と呼ばれている英気風発の公達《きんだち》であったに相違ない。
 前にいった通り、その時分の京都の公卿さんの若手のうちには、きかないのがおりました。中山忠光卿や、姉小路|公知《きんとも》卿や、岩倉|具視《ともみ》卿あたりもその仲間でありましょう。ここに現われた高村卿なるものも、多分その一人であろうと思われる。
 彼等の憂うるところは、徳川幕府よりはむしろ勤皇を名として勢いを作り、幕府の実権をわが手におさめようとする一二雄藩の野心である。ちょうど、足利尊氏《あしかがたかうじ》が最初に勤皇として起り、ついに建武中興をくつがえしたように、徳川を倒すはよいが、徳川を倒した後の第二の徳川が起っては、なんにもならないではないか。これは今のうちに、あらかじめ備えておかな
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