なる以前から、やはり南無妙法蓮華経と響いていたのでございましょう……海の波がしらは獅子の鬣《たてがみ》のようだと、人様が申しましたが、私共が聞きますと、大洋の波の音は、獅子の吼える音とおなじなのでございます」
 虫の鳴く音から誘われた弁信の耳には、東夷東条安房の国、海辺の怒濤《どとう》の響が湧き起ったようです。

         二

 その時、塔の上では茂太郎が、けたたましい声で歌い出しました――
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とっつかめえた
とっつかめえた
星の子を
とっつかめえた
星の子を
とっつかめえて
五両に売った!
五両の相場
五両の相場は誰《た》が立てた
八万長者のチョビ助が!
[#ここで字下げ終わり]
 けれども、下にいた弁信法師の耳には、この時|海潮音《かいちょうおん》の響がいっぱいで、茂太郎のけたたましい声が入りませんでした。
 弁信法師は今|黙然《もくねん》として、曾《かつ》て聞いた片海《かたうみ》、市河、小湊の海の響を思い出しているのです。梵音海潮音《ぼんおんかいちょうおん》はかの世間の声に勝《まさ》れりという響が、耳もとに高鳴りして来たものですから、その余の声を聞いている遑《いとま》がありません。
 こうして、天上のあこがれと、地上の瞑想《めいそう》が、二人の少年によって恣《ほしいまま》にされている時、その場へ不意に一人の殺生者《せっしょうもの》が現われました。
 殺生者――といっても白骨の温泉へ出発した机竜之助が立戻ったわけではなく、極めて平凡なその道の商売人である猟師の勘八が、抜からぬ面《かお》で立戻り、ひょっこりと[#「ひょっこりと」に傍点]この場へ現われたものであります。
「弁信さん、お前、そこで、あにゅう、かんげえてるだあ」
 猟師の勘八は、いま山からもどったばかりのなり[#「なり」に傍点]で、鉄砲をかつぎながら言葉をかけたものですから、
「あ、勘八さんでしたか」
「今、けえ[#「けえ」に傍点]りましたよ」
「そうでしたか、猟はたくさんございましたか」
「大物を追い出すには追い出したでがすが、また追い込んでしまったから、これから出直しをしようと思ってけえ[#「けえ」に傍点]って来たところでがすよ」
「あ、左様でございましたか。そうしてその大物というのは何でございます」
「熊だよ」
「え、熊がこの辺にもおりますか」
「いますとも」
「お
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