を聞いている弁信の面《おもて》から、泣くが如く、憂うるが如き、一味の哀愁を去ることができません――これは二人の性格の相違にもよるのでしょうが、すべて天上を見るものには、無限のあこがれがあって、地上に眼を転ずる時は、誰しも一味の哀愁をわすれることができないのでしょう。
 そこで、天上と地上の二人の交渉は、暫く絶えてしまいました。
 星はほしいままに天上にかがやき、虫は精いっぱいに地上で鳴いていると、
「鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は泣かねど涙ひまなし……と日蓮上人が仰せになりました」
 弁信法師がこういって、見えない眼をしばたたいたのは、物に感じて、また例のお喋《しゃべ》りを禁ずることができなくなったものでしょう。
「鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は泣かねど涙ひまなし……と日蓮上人が仰せになりましたのは……」
 弁信法師は、地上の虫が咽《むせ》ぶように咽び出して、
「現在の大難を思うも涙、後生《ごしょう》の成仏《じょうぶつ》を思うてよろこぶにも涙こぼるるなり、鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は泣かねど涙ひまなし……と御遺文のうちから、私が清澄におります時に、朋輩から教えられたのを覚えているのでございます」
といって、あらぬ方《かた》に向き直って、いつもするように、誰をあてにともない申しわけ。
「ええ、私でございますか……いつも申し上げる通り、この眼が見えないものでございますから、耳の方が発達しておりまして、一度聞かせていただいたことはわすれません、二三度、とっくり[#「とっくり」に傍点]と聞かせていただきますと、生涯わすれないのが、幸か不幸か私にはわかりませぬ……ことに、達人高士のお言葉には、必ず音節とおなじような律《りつ》がございますものですから、それが音律の好きな私には、ひとりでに、すらすらと覚えられてしまう所以《ゆえん》でございます」
 弁信は、ふらふらと庭の中を二足ばかりあるいて踏みとどまり、
「日蓮上人は、安房《あわ》の国、小湊《こみなと》の浜でお生れになりました。こういう山国とちがいまして、あちらは海の国でございます、大洋の波が朝な夕なに岸を打っては吼《ほ》えているのでございます……小湊へおいでになった方も多いでございましょうが、あの波の音をお聞きになりましたか……今も波の音が南無妙法蓮華経と響いて聞えるのが不思議でございます、それは日蓮様がお生れに
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