なく照らし見ようとした刹那、猟犬の縄をゆるめたものですから、犬はまっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に一方へ向いて飛んで行きました。二人がおどろいてその方向を見ると、栗の大樹があって、その根もとに人らしいものがうずくまっている。
 勘八は鉄砲を取り直しましたが、兵馬はしか[#「しか」に傍点]と見定め、
「人がつながれている」
 これも危険なしと見て近寄ると、繋《つな》がれている人の姿は男でありますけれど、正しくは女でした。
 ほどなく宇津木兵馬が先に立ち、猟師の勘八がお銀様を背負って、もと来た炭焼小屋まで立戻って参りました。
 そこで、兵馬はお銀様に向い、お銀様の捕われた一団というのが、一定の住所というものを持たずに、全国の山から山を旅して渡り歩く山窩《さんか》というものであろうことを教え、なお山窩というもののいわれを一通り説いた上で、とにかくもその手から逃れたことを、お銀様のために祝いました。けれども、なお充分に合点《がてん》のゆかぬことは、その一団が立派な衣裳道具を持ち、上品な言葉づかいをしていたということで、一般の山窩《さんか》は、もっと野蛮で、もっと兇悪な分子を持っているはず、その一点だけがどうも解《げ》せないというと、猟師の勘八も傍から口を出し、山窩の奴等に、舞いを舞ったり、笛を吹いたりするような風流気はあるものでなく、せいぜい彼等は箕直《みなお》し、風車売りぐらいのところで、その性質疑い深く、残忍性に富んでいることを物語り、右の一団は、どうも山窩ではあるまいといいました。
 それは疑問のうちに残されながらも、ともかく、そこを脱出したお銀様の行先について、
「あなたは上野原の月見寺へおいでなさるそうですが、誰をたずねてあの寺へおいでなのですか。わたしもあの寺にいたのです」
「あのお寺に、琵琶を弾く盲目《めくら》の法師がいると聞きましたから、それをたずねてまいる途中でございます」
「ははあ、弁信殿を尋ねておいでなのですか。あの人ならば、まだ寺にいるでしょう。珍しく勘のいい人ですね」
 お銀様は、この少年の親切にして、義気のあるのに感心しました。見たところ、さむらい[#「さむらい」に傍点]の風をしているのに、どうしてこんな山の中に、猟師と一緒に生活をしているのだろう。月見寺のことも、弁信のことも、よく知っているのが不思議だ。まだ尋ねてみたいことも多いが、万事は明日。そこで、広くもあらぬこの炭焼小屋に枕を並べて、一夜を明かすことになりました。勘八は早くも高鼾《たかいびき》、兵馬もやがて眠りにつき、お銀様もうとうととして夢路に入りましたが、肉体は疲労によってあくまで休息を求めるのに、神経は夜来の刺戟によって、盛んに躍動をつづけようとする。こういう時には、誰しも見まいとして見るのが怖ろしい夢です。
 お銀様は怖ろしい夢にうなされました。その夢とても、過去の現実を離れた夢ではなく、過去の最も怖ろしかった記憶が、ほとんどそのままに再現されたままです。
 その怖ろしかった記憶は、躑躅《つつじ》ヶ崎《さき》の古屋敷で、酒乱の神尾主膳に脅迫《きょうはく》された時、伯耆《ほうき》の安綱《やすつな》の名刀を抜いて迫り来《きた》る神尾主膳、それを逃れて走り下りた二階の階段、そこには善悪邪正いずれとも判別しかねる人がいた。
 理も非もなくその人に縋《すが》りついて助けを求めた時、その鉄壁のような冷たさと、吸盤のような引力に吸い込まれて、その夜、ついに怪しい二つの蝶の夢を見て、夜が明けた時は、肌がすっかりと汗ばんで、髪がべっとり[#「べっとり」に傍点]と濡れていました。
 その時以来、そのつめたい人がこの胸を火のように燃やす。ひとたび愛人幸内を失ったお銀様には、たまらない肉のもだえがある。わが雇人であった幸内を、身も心も自由にしていたように、お銀様は、その人に、わが心も、わが身も自由にし、自由にさせていた。その持っていたつめたい残忍性が、お銀様を翻弄する時に、お銀様もまた、残忍そのものを翻弄する痛快心に駆られて、この女だけが人を斬ることを知って、少しもおそれなかったのです。最初の縁は躑躅ヶ崎の古屋敷。
「ああ、あの蝶の羽風《はかぜ》が……」
 悪夢の中に、どろどろにもだえたお銀様は、力かぎりその人にしがみ[#「しがみ」に傍点]つくと、夢が破れて、おどろいたのは自分の胸に重い物。いつか知らず傍らの宇津木兵馬をかたくだきしめていました。
 宇津木はそれを知らず、知ったお銀様は、どうしてもこの腕を離しともない心になりました。

         十

 信州|諏訪《すわ》の温泉、孫次郎の宿についた晩、お雪は久助と外のお湯へ行き、竜之助は、ひとり剃刀《かみそり》で面《おもて》を撫でておりますと、
「御免下さいまし、お土産《みやげ》をお召し下さいまし」
 スルスルと入って来たのは女の声です。竜之助は返事をしないで、なお燈火《あかり》の下で面を撫でておりますと、入って来た土産物売りは黙認を得たとでも思ったのか、
「いろいろございます、これが諏訪の明神様の絵図、こちらがおなじ明神様の神木でこしらえましたお箸、それから、湖水で取れました小蝦《こえび》と鮒《ふな》……」
 ここまで並べ来った時に、物売りの女が、あっとおどろいたのは、行燈《あんどん》のあかりが消えてしまったからです。
「おや、お明りが消えました、おつけ致しましょう」
 お土産物の陳列をよそにして、行燈のそばに寄った土産売りの女は、その抽斗《ひきだし》から火打道具を手さぐりで探して、やっと火をきって[#「きって」に傍点]附木にうつし、行燈の燈心を掻《か》き立てた時に、再び驚いたのは、この部屋の主は、相変らず面を剃刀で撫でていたからです。つまり、燈火の消えたのを平気で、その暗い中で相変らず面を剃っていたのであります。
「どうぞ、何か一品お召し下さいませ」
 改めて、土産物売りの女は自分の座へ戻りました。
「土産を買ってやるから、この首を剃ってくれないか」
「ええ、よろしうございます」
 そこで机竜之助は剃刀の柄《え》を向うにして、物売女の方へ突き出すと、物売女は気軽に受取って、
「お面《かお》の方はお済みになりましたか」
「ああ、面は済んだから、この襟足のところだけを願いたい」
「はい、お明りをこちらへ向けましょう」
 女は剃刀を取って、竜之助の後ろへまわりました。
「御逗留《ごとうりゅう》でございますか……」
「一夜泊りだ」
「左様でございますか」
 女は慣れた手つきで、竜之助の首筋に剃刀を当てて後ろに撫で卸すと、
「景気はどうです」
と竜之助がたずねますと、
「おかげさまで、この下《しも》の諏訪《すわ》は、あんまり不景気ということがございません。丁度、甲州筋からおいでの方も、中仙道を和田峠からおいでの方も、塩尻を越えて木曾の旅をなさるお方も、伊那の方からおいでの方も、みんなここへお立寄りになりますのに、諏訪のお社《やしろ》というものがございます上に、この通り温泉が湧いて出ますものですから……」
「諏訪の湖というのはどちらに当ります」
「え、湖でございますか。湖は、もうこのすぐ下がそれでございますよ、障子をあけてごらんになると、一面に……」
 女は、今までそれを気がつかなかったお客は、多分、暗くなってから着いたお客だろうと思い、
「今夜は、お月夜かも知れません、障子をあけましょうか」
 気を利《き》かして、女は剃刀の手を休め、客をして月明の諏訪の湖《うみ》をながめ飽かしめんとした好意を、竜之助は断わって、
「風が冷たいからそれには及ぶまい。そうだな、月というものを見たのは、いつのことか。伊勢の阿漕《あこぎ》ヶ浦《うら》というところで見たのが、あれが最後だろう。いや、あれは見たのではない、聞いたのだ。夕凪《ゆうなぎ》と朝凪《あさなぎ》に名を得た静かな伊勢の海、遠く潮鳴りの音がして、その間を千鳥が鳴いて通った時、浜辺と海がぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と明るくなったように覚えている。多分、あの時に月がのぼったのだろう。あれ以来見たことはもちろん、聞いたこともない」
 竜之助が、謎のような独語《ひとりごと》。急に剃刀の手を止めた女の面《かお》が美しいものになりました。
 この女は、もうよい年ですけれども、お化粧をして、赤い縮緬《ちりめん》の前掛をしていましたが、
「まあ、伊勢からおいでになりましたのですか」
 急に、晴々《はればれ》した美しい面になると、真紅《まっか》な縮緬の前掛が燃え出したようにうつり合いました。
「伊勢から来たというわけでもないが、伊勢には暫くいたことがあるのだ」
「それでは間《あい》の山《やま》をごらんになりましたか」
「間の山は見ないけれど、間の山節というのを聞いたことがある。そういうお前こそ伊勢の国のうまれか」
「わたくしは伊勢のうまれではございません、どこといってうまれた国は……まあ、渡りものなんでございますね」
「渡りもの?」
「ええ、お恥かしい話ですが、男に欺されて諸国をひきまわされたあげく、今ではこうして信州の諏訪へ来て物売りを致しておりますようなわけでございます。女というものは、水性《みずしょう》なものでございますから、男次第でどうにでもなります。ほんとうに意気地のないものでございますね、オホホホホ」
 この時の女の言葉には、触《さわ》れば落ちるような甘味をふくんでいたので、竜之助は暫く沈黙しました。
「ねえ、旦那様、おついでにお面《かお》の方も、もう一ぺんあた[#「あた」に傍点]って上げましょうか。殿方のおあたりになったよりも、これでも女の方が、手ざわりがいくらかやわらかになるかも知れません。御免下さいまし」
 そのやわらかな手を、首筋から頬のあたりへうつした時に、竜之助の面《おもて》がひときわ蒼白《あおじろ》くなりました。
「もうよろしい」
「どうも失礼を致しました……いいえ、お代はあとで帳場からいただきます」
といって、女が出て行ってしまったあとで、竜之助は、自分の身に残るうつり[#「うつり」に傍点]香《が》といったようなものに、苦笑いをしました。
 これは売女《ばいじょ》の類《たぐい》だ。物を売ることにかこつけて、色を売らんとする女。よく温泉場などにあった種類の女――おれをそそのかしに来たのがおぞましい。
 とはいえ、今の竜之助にあっては、女というものの総ては肉である。美醜をみわけるの明《めい》を失っているから、美のうちに貴《たっと》ぶべきものの存するのを発見することができない。醜を感知するの能を失ってから、醜の厭《いと》うべきを知って避けるの明がない。
 いや、それは単に女ばかりではあるまい。この男は、すべてにおいて、むずかしくいえば、宗教がなく、哲学がなく、またむしずのはしる芸術というものがない。ただあるものは剣だけです。勝つことか、負けることかのほかに生存の理由がないので、恋というものも、所詮《しょせん》は負けた方が倒れるものである。心中の場合においては、大抵、男が女に負けて引きずられて行くのである。曰《いわ》く薩長、曰く幕府、曰く義理、曰く人情、みな争いである。争いでなければ、争いを婉曲《えんきょく》に包んだものに過ぎない。人間日常の礼儀応対までが、この男の眼――見えない眼を以て見れば、ことごとく剣刃《けんじん》相《あい》見《まみ》ゆるの形とならないものはない。いやまだまだ、人間の生存そのものが、また一つの立合である。
 一剣を天地の間《かん》に構えて、天地と争って一生を終る――所詮、天地の間に吐き出されて、また天地の間に呑まれ了《おわ》るものと知るや知らずや。生存ということは、天地の力に対抗して、わが一剣を構ゆることに過ぎない。わが一剣の力衰えざる限り、天地の力といえども、如何《いかん》ともすることができない――と、彼はそう思わないで、そう信じている。
 女というものに触れる時――彼は、いつでも戦いを挑《いど》まれたように思う――そうしてこれを斬ってしまわなければ己《おの》れが斬られてしまうように思う。この場合においては、相手の善悪美醜を
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