不思議な囃子でございます」
「しかし、さほど遠いところでもないようだが」
「左様でがす、どこで聞いても同じように聞えるんで。三里遠くで聞いても、五里遠くで聞いても、あのくらいに聞えるんでがすよ。お化けか、そうでなければ天狗様のいたずらでがんしょう」
「お前は、それを調べてみましたか」
「いいえ、そういうことはしてみましねえ」
「さまで遠くはないようだ」
九
けれども、響きがあって物のないという道理はありますまい。これをお化け囃子と名づけ、天狗のいたずらと怖れてしまうのは、それを究《きわ》める人に、究めるだけの勇気と根気とがないせいでありましょう。
現に、陣馬、和田、熊倉、生藤《しょうとう》の間に囲まれた谷の中に、篝《かがり》を焚いて、カンラカンラと鼓を打ち、ヒューヒューヒャラヒャラと笛を吹いている一団があるのであります。
ここに篝を囲むほどの連中が、みな仮面《めん》をかぶっている。鼓を打ち、笛を吹き、鉦《かね》を鳴らすものも、みな仮面をかぶっている。その仮面は、ありふれた里神楽の仮面もあれば、極めて古雅なる伎楽《ぎがく》の面《めん》に類したのもあるが、打見たところ、篝の周囲に集まるほどのものが、一人として素顔《すがお》を現わしたのはありません。
そうして、かれらの或る者は太鼓を叩き、或る者は笛を吹き、或る者は鉦を打って、残りの者がことごとく踊っている。一見すれば極めて古怪なる妖魅《ようみ》の集《つど》い――
彼等は、拍子に合わせて、さんざんに踊ると、赤頭《あかがしら》に猩々《しょうじょう》の面をかぶったのが、
「いかにおのおの方、大儀に覚え候《そうろう》ぞ、一休み致して、また踊ろうずるにて候ぞ」
謡《うたい》がかりの口調でいうと、
「畏《かしこ》まりて候なり」
一同が踊りをやめて休息に入る。無論、囃子の音も、その時はヒタとやみました。
囃子も、踊りも、ひときわ休息に入ったけれども、この連中のすべてが仮面《めん》を取ることをしませんから、誰がどうだと正体のほどはわかりません。
幾つかの篝《かがり》で、そこらは白昼のよう。前には小流れがあって、背後《うしろ》に山を負うて帆木綿《ほもめん》の幕屋。
この谷間の、この部分だけは白昼のように明るいけれども、周囲は黒闇々《こくあんあん》に近い山々。僅かに二日の月が都留《つる》の山の端《は》に姿を見せているばかりです。
この時、猩々は再び立ち上って仮面《めん》の下より、
「いざ、このたびは天《あま》の返矢《かえりや》を舞おうずるにて候ぞ」
「心得て候」
またも、一同が入りみだれて、舞の庭に立ち上る。狩衣《かりぎぬ》、差貫《さしぬき》ようのもの、白丁《はくちょう》にくくり袴《ばかま》、或いは半素袍《はんすおう》角頭巾《かくずきん》、折烏帽子《おりえぼし》に中啓《ちゅうけい》、さながら能と神楽《かぐら》の衣裳屋が引越しをはじめたようにゆるぎ出すと、笛と大拍子大太鼓がカンラカンラ、ヒュウヒュウヒャラヒャラ。
「そもそも、天の返矢といっぱ……」
そこで踊りの面々が、おのがじし踊り出すと、恵比須《えびす》の面《めん》をかぶったのが、いちいちその間を泳いであるいて、この踊りを訂正する。手のさし方、足の踏み方を、模範を示して直してあるく。すべてが一心を打込んで踊っているうち、ひとり、例の猩々だけは踊らない。自然木《じねんぼく》の切株に腰うちかけ、中啓を以て踊りの庭を監督している体《てい》です。この時、不意に谷の一方に、けたたましいさけびが起って、一団の人が罵《ののし》りながらこの場へ入って来て、
「太夫に申し上げまする」
「何事にて候ぞ」
「ただいま、怪しい奴が、これへ忍んで参りたるによって、この通り取押えて引立てましてござる」
「なんと、怪しい奴が?」
どちらが怪しいのだかわからない。この奇怪極まる山中の、仮面《めん》の集まりを襲うてくるもののある以上は、やはりそれ以上怪しいものも存在するかに見ゆる。
「こやつでござりまする、われわれの楽しみをさまたげんとて来りし奴、目に物見せてくりょうと存じまする」
猩々の面前に引据えたのは、覆面にして双刀を帯する身、まさしく武士の姿。
「覆面を剥《は》いで見い」
「畏まりました」
篝《かがり》の前へ押向けて覆面を剥ごうとする。そうはさせまいとする。やがて意外のさけび、
「やあ――女だ」
床几《しょうぎ》に腰をかけた猩々《しょうじょう》の仮面《めん》は、
「おお、御身は女性《にょしょう》にて在《おわ》するな。何とて斯様《かよう》なる山中へ、女性の身一人にておわせしぞ。まして男の装いしたる有様こそ怪しけれ」
ことさらにいうとも思えないほどの自然な調子、朗々たる音吐《おんと》で、雅文体の問答をしかけられましたので、捕えられた男装の婦人は、
「はい、小仏より上野原へまいる途中、駕籠《かご》を見失い、道に踏み迷うてこれへまいりました」
面《おもて》を伏せて柔順《すなお》に答えました。
「して、何用あって上野原へまいらるる。御身はいずれの御出生ぞ、うけたまわりたし」
「たずねる人があって、江戸を立ち出でてまいりました」
「男の装い召されしは何故ぞ」
「道中が心配になりますから……」
「さりながら、女性《にょしょう》の男装して関所を越ゆるは、国のおきての許さぬことを、知らぬ御身にてはよもあらじ」
「それは存じておりますけれど」
問われて窮する女の姿を、仮面の中より見下ろしていた猩々は、
「いかさまこれは、ことさらにわれらが楽しみをさまたげんとて来りしものとも思われねど、まずは詮議《せんぎ》の次第もあり。いかにおのおの、この女性を幕屋のうしろ、栗の大木の下へつなぎ置き、暫しの窮命をせさせたまえ。ただし、手荒に振舞いたもうなよ」
「畏まりて候」
こういって鬼の面をかぶった数名のものが男装の女――いうまでもないお銀様を引立てて、幕屋の背後《うしろ》へ連れて行きました。
そうして、猩々から命ぜられた通りに、栗の大木へ結《ゆわ》いつけましたけれども、特に手荒に振舞うべからずとの言葉添えが与《あずか》って力ありと見え、ただ、逃げられない程度に縛ったのみで、敷物まで持って来て坐らせました。
お銀様は、どのみち、怖ろしい目に遭うべき暫時の後を期待して、覚悟をきめてしまいました。それにしても、いよいよ合点《がてん》のゆかないのはこの一団の集まりであります。こうして、舞いつ歌いつ、よろこび楽しむ分には、さのみ世をはばかる必要はあるまいに、この山中へかくれて、そうして張抜きの大筒《おおづつ》をこしらえるわけではなし、謀叛《むほん》の相談をしているとも思われない。いかに世上おだやかならずといえども、神楽をするに、隠れ忍ぶ必要もあるまいではないか。ことに打見たところでは、それぞれ仮面をかぶり、立派な衣裳道具を備えている。なお一団のものの会話が、中古の雅文体をそのままで、どうかすると近代の訛《なま》りが入る。大将分らしい猩々の音声は、清く澄みわたって、水の滴《したた》るような若さがある。とはいえ、一団の人、いずれも仮面《めん》をかけているから、品格のほども、年配のほども、一切わからない。狐狸妖怪の世界か、それとも人間か。
お銀様が思い乱れている時に、不意に轟然《ごうぜん》として、山谷をうごかす一発の銃声が起りました。
この鉄砲の音はいずれから起ったかわからないが、その一発の音が起ると、さしも昼を欺《あざむ》くほどに焚かれていた篝火が、ほとんど一度に掻消され、同時に歌舞音曲の賑いはパッタリとやみ、人が闇中を右往左往にうごめき出す。ただその右往左往にうごめく人が、枚《ばい》をふく[#「ふく」に傍点]んだ夜討のように、一言も声を立てないで、踊りの庭と幕屋の内外を走り廻り、物を掻集め、ひきほどきひきむすんでいる体《てい》は、まさしく隊を組んでこの場を走ろうとする形勢であります。
お銀様だけは、どうすることもできません。幸か不幸か忘れられていました。眼前の幕屋でさえも、手早く引きほごされて、荷ごしらえをされる有様なのに、忘れられたお銀様は、ただ怖ろしい夢の中で、走れない人のように気を焦立《いらだ》つけれども、この場合、助けを呼ぶのが利益か不利益かはわかりません。すべてが沈黙して暗中にどよ[#「どよ」に傍点]めいている時。
つづいて山谷にこたゆる第二発目の鉄砲。
その谷間より程遠からぬ柿の木平というところに立っていた猟師の勘八と宇津木兵馬。
勘八が鉄砲の狙《ねら》いをつけると、兵馬は逸《はや》りきった犬の紐をひかえながら、
「まあ、待って見給え、もう少し近寄ってみようではないか」
勘八の切って放とうとしたのは第三発目の鉄砲です。
その第一発を、やはり同じところから発射した時に、賑やかな拍子の音が、パッとたえ、それと同時に、さしも昼間のように明るかったその一団の火がフッと消え、闇の中に、なんとなく谷間が動揺しているようですから、程を見すまして第二発を切って放したが、これは手答えがありません。やがて闇中の動揺も静かになって、一様に空々寂々たる山谷《さんこく》の夜となりましたから、二人はまさしく物につままれたような気分で、なお暫く形勢をみていましたが、用心のため、更にもう一発を切って放ち、そうして、その明りと音のあった方向へ進んでみようというつもりで、勘八が第三発目の狙いをつけたのを兵馬が遮《さえぎ》って、ともかくもこれから探り寄って見ようという。
そこで二人は、わざと火縄をかくし、松明《たいまつ》もつけず、闇にまぎれて、最初の怪しい音と明りの場所をめざして進んで行きました。
勘八の頭では、これは、てっきり物《もの》の怪《け》の仕業《しわざ》だと思っている。最初から、さわらぬ神に祟《たた》りなしの方針を取って、聞き流していたかったのを、強《し》いて兵馬にすすめられたものですから出て来ました。出て来て見ると、音のするところに明りがある。そこでその明りをめがけて一発打ち込んでみたのは、単にさぐり[#「さぐり」に傍点]を入れたつもりで、その根元をきわめようとまで思っていなかったものです。
こうなってみると、例のものすごい二日月が山の端《は》にかかっているだけで、真暗《まっくら》のところを、裾をめぐって行くものですから、めざす方向がドチラだかわからなくなりました。
「げえ[#「げえ」に傍点]もねえからよそうじゃございませんか、ばか[#「ばか」に傍点]されてもつまら[#「つまら」に傍点]ねえ」
勘八は、なお気が進まないのに、好奇《ものずき》に駆《か》られているのは兵馬ばかりではありません、兵馬の手にひかえられている猟犬がしきりに逸《はや》って、先に立つものですから、気が進まないながら勘八も、後ろへひくわけにもゆきません。
犬が案内してくれました。やがてめあての谷へ近づいた場合にも、犬がいよいよ勇みますから、危険がないと知り、そこで勘八は、火縄の火を附木にうつして用意の松明《たいまつ》をともし、一行は小流れ伝いの谷間へ入り込んで来ました。
兵馬の心では、人の噂《うわさ》に聞くことに多くの不思議がある、今は目《ま》のあたりその不思議にぶつかったのだから、この機会を逸してはならない、あくまで根元を究めてみようと勘八を引きずり、犬に引張られて、ほどなく例の谷間までやって来ました。
松明の光に、まず照らされたその谷間の光景はすこぶる狼藉《ろうぜき》たるもので、篝《かがり》の燃えさしだの、木や竹の片《きれ》だの、地面に石や穴が散在していることだの、つい今までなにものかが集まっていた形跡は蔽《おお》うことができません。もし、ここに相当の陣地を構えていたものならば、逸早《いちはや》く退却してしまったものに相違なく、その退却ぶりを見ると、その形跡こそ狼藉たるものだが、武器や生活の要具は一つも落ちのこされていないことによって、かなり鮮《あざや》かな退却ぶりだといわなければなりません。
兵馬は勘八の手から松明を借受けて、狼藉たる陣地の跡を隈
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