るとのこと。それやこれやを見せつけられているお絹の立場はたまらない。
 それを、それほどにお察しがなく、べらべらと大魔術の能書《のうがき》を並べたり、承ったりしている金助と福村の面《かお》が癪《しゃく》にさわり、
「何だい、乞胸《ごうむね》の親方なんか、そんなに持ち上げる奴があるものかい。金公、ちっと気を利かして口をきいておくれ、席が汚《けが》れるよ」
といってお絹は、いい気になって喋《しゃべ》っている金助の肩をこづいたものですから、ハズミを食って金助が、ひとたまりもなくひっくり返ってしまいました。
「これは、これは」
 金助はひとかたならず恐縮してしまい、ははあ、うっかり口を辷《すべ》らし過ぎたなと思って起き上ると、口を抑える真似《まね》をしました。
 それを尻目に、お絹はさっさと寝間へ入ってしまいます。

         八

 小仏から陣馬を通って、上野原へ急ぐ一挺《いっちょう》の駕籠《かご》。
 この道は、過ぐる夜、蛇滝《じゃたき》の参籠堂を出た机竜之助の駕籠が、そこで、小雨と、月の霽間《はれま》と、怪霧と、天狗と、それから最後に弁信法師の手引によって救われた甲州街道のうちの一つの隠し道であります。
 あの時は月夜、今日は、たそがれ時で、足もとの明るいうちには必ずや上野原の駅へ足を踏み入れようという時分、左手の山谿《さんけい》の間には、遠く相模川の川面がおりおり鏡のように光って見える時、山巒《さんらん》を分けて行く駕籠は、以前のように桐油《とうゆ》を張った山駕籠ではなく、普通に見る四ツ手駕籠。
「そういうわけで、あのお若さんも殺されちまったそうですが、殺したのは多分、もとの御亭主だろうという話で……」
といったのは前棒《さきぼう》の駕籠屋。偶然にも、その駕籠を舁《かつ》いで行く権三《ごんざ》と助十《すけじゅう》は、あのとき机竜之助を乗せた二人であるらしい。
 ただ、乗っている駕籠の客が滅多には口を利かない。
 さて、駕籠屋たちはあの時以来、幾度もこの道を往来したと見えて、あの時の天狗物語も口の端《は》には上らず、丹沢山塊の方面で怪しい火の見えたことも、濃霧に襲われたことも、時効にかかっているらしい。
 陣馬の鼻まで来た時分に、佐野川方面から下りて来る笠を認めた前棒が、
「あ、向うから人がやって来るぜ。おやおや、唯の人じゃねえ、お供をつれたおさむらい[#「さむらい」に傍点]だ。ことによると八州のお役人様かも知れねえ」
 そこで、前後の駕籠屋が二の足を踏みました。駕籠屋自身には暗いことはないが、お客のために心配があると見えて、
「旦那様、向うから、人が来るようですが、その人も唯の人ならよろしうございますけれど、このごろ、八州のお役人様が、この辺へお入りになっているそうですから、もしお役人だとすると、空《から》ならば言いわけが立ちますが、中身があってはお客様のために面倒と存じますから、どうか、ちょっとの間お下りなすってくださいまし、そうして暫くお隠れなすっていてくださいまし。ナニ、通り過ぎてしまえば何のことはねえのですから……」
 駕籠屋は駕籠を卸《おろ》して、中なる人にかく申し入れました。
 本来、ここは変則の道であることは前にもいった通り、小名路《こなじ》の宿から本式に駒木野の関所を通って、小仏峠から小原、与瀬へとかかって上野原へ行くのが順なのを、五十町峠からこの道を取るのは、厳密にいえば関所破りにはなるが、習慣の許すところにおいては、変通の道があって、濫用《らんよう》されない限りは見ぬふりのお目こぼしがあると聞く。しかし、役向の者が、役向を以てめぐる時分には、その正面を避けない限りは、事が面倒になるのは当然《あたりまえ》であります。
 多分これを心配して、駕籠屋は駕籠の中へ申し入れたものと見える。最初からほとんど無言で通して来た駕籠の中の客も、これには返答を与えないわけにはゆかないので、
「承知致した」
 そこで駕籠屋は急いで垂《たれ》をハネ上げると、駕籠の中から一刀を提げて出て来たのは、羽織袴の身分あるらしい覆面のさむらい[#「さむらい」に傍点]でありました。
「どうか、こちらの方へひとつお隠れなすっていていただきます」
 駕籠屋が案内した木立の中。駕籠屋どもはなにくわぬ面《かお》をして、ワザと悠々と空駕籠を荷《にな》って通り過ごすこと半町ほどのところで、期待した通りに、バッタリとであったのは予想の通り、供を一人つれた八州見廻りの役人であります。
「駕籠屋」
「はいはい」
「その駕籠は空であろうな」
「はい、仰せの通り空でございます、摺差《するさし》まで参りましての戻りでございます」
と言って駕籠屋どもは申しわけをする。それで許されるであろうことを予期して、唯々《いい》としてやり過ごそうとすると、
「それは幸いのことじゃ、摺差《するさし》までやってくれ」
「エ?」
 駕籠屋二人が呆気《あっけ》に取られました。
「摺差までやれ」
「はい」
 八州の役人は、その駕籠へ近寄って、手ずから垂《たれ》を揚げたものですから、駕籠屋どもは、もう二の句がつげません。お断わりを申すにも申すべき術《すべ》もなければ、理由を見出す余裕などがあろうはずはありません。相手が泣く児もだまるはずの八州のお役人ときているのですから――
 ぜひなく、この当座の空駕籠は臨時のお客を入れて、再び小仏から摺差へ戻らねばならない羽目《はめ》になりました。しかし、これは常ならばむしろ勿怪《もっけ》の幸いで、一人でも客にありついた商売冥利《しょうばいみょうり》を喜ぶはずになっているのが、今の場合はそうではありません。
「摺差まで三里はございますけれど、この三里は下りでございますから、楽でございますよ」
 以前に客を残して置いたところで、駕籠屋はワザと大声でいいました。
 そこでこの駕籠は、結局以前のお客を置去りにして、新しい権威ある客を乗せて、三里余りの山道を戻ってしまうのです。駕籠が山の蔭にかくれた時分に、木立から立ち出でた最初の客、恨めしげにそのあとを見送っていましたが、やがて思い返して、前路に向って力足を踏むの覚悟。
 人里に遠い夕暮の山道に取残されたとはいえ、足に覚えのある者ならば、上野原までの道は、さまでは苦にならないはず。
 ところが、思いきって踏み出したこの覆面のさむらい[#「さむらい」に傍点]は、思いのほかに足弱でありました。三町五町歩むうちに、その疲れ方が目立ってきて、腰の物が重過ぎる。この分で三里の山道は甚だおぼつかない。ましてその間には迷い易い幾筋もの岐路《えだみち》がある。
 果して、暗の落つると共に、路を失ったこの旅のさむらい[#「さむらい」に傍点]は、左に行くべきを右にいって、甲斐と武蔵の国境を、北へと辿《たど》っているのであります。こうなると、もいっそう暗くなるのを待って、どこかに火影《ほかげ》を認めて進む方が賢いかも知れない。程経て、陣馬と和田との間の高いところへ立ったさむらい[#「さむらい」に傍点]は、そこで今まで脱ぐことをしなかった覆面を解いて、夜の高原の空気に面《おもて》を曝《さら》すと、西の空に二日月《ふつかづき》がかかっているのを見るばかりで、前後も、左右も、みな山であります。
 ホッと息をついて汗ばんだ面を拭うと、べっとりと濡れた髪の毛――その髪の毛は、女にも見ま欲しいたっぷりしたのを、グルグルと櫛巻《くしまき》にして、後ろへ束ねていました。
 西の空にかがやく二日月。暫く放心してその月影をながめているうちに、何に打たれてか身ぶるいしました。その時の、この人の形相《ぎょうそう》は、絵に見る般若《はんにゃ》の面影《おもかげ》にそのままであります。この人は月をながめているのではない、月を恨んでいるのです。
 この高処に立って、下りて行くべき何かの暗示を求めて得ざるが故に、二日の月に空しく恨みを寄せている。
「わたしは知らない」
 その恨みは女の声。その女はまさしくお銀様であります。
 黒衣覆面の男の装《よそお》いして、両国のお角の宅を出し抜き、こうしてここまで辿《たど》って来たお銀様。ここでまたも方角を失いました。
 ほどなく西北と覚《おぼ》しき方面の谷間《たにあい》にあたって一団の火光。
 お銀様はその火を見て喜びました。
 しかしながら、この一団の火光は、お銀様を喜ばす目的地方面の火ではなく、怖るべき山窩《さんか》の一団の野営ではないか。お銀様は、そんなことを一向に知りません。
 お銀様が進んで行く行く手の谷間から、カラカラと神楽太鼓《かぐらだいこ》の音が起りました。
 それを聞いたお銀様は、いよいよ里の近くなったことを知ってよろこぶ。
 あのはやし[#「はやし」に傍点]の音は、鎮守《ちんじゅ》の夜宮か、或いは若い衆連の稽古。その音《ね》をたよりに里へ出ようとして、かえって里へ遠くなることを気づかないのはぜひもありません。
 この神楽太鼓の音こそ、人を迷わすものでありました。その音の響き来《きた》ることを聞いて、この音の起るところを知らない囃子《はやし》がそれです。土地の人はそれを恐れていたけれど、お銀様は、そのいわれを知らない。
 当時、この附近の村里に住む人は、この太鼓の音を聞くと怖毛《おぞけ》をふるったものです。
「諸国里人談《しょこくりじんだん》」に曰《いわ》く、
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「武州相州の界《さかひ》、信濃坂に夜毎にはやし物の音あり。笛鼓《ふえつづみ》など四五人声にして、中に老人の声一人ありける。近在または江戸などより、これを聞きに行く人多し。方十町に響きて、はじめはその所知れざりしが、次第に近く聞きつけ、その村の産土神《うぶすな》の森の中なり。折として篝《かがり》を焚くことあり。翌日《あけのひ》見れば青松、柴の枝、燃えさして境内にあり。或はまた青竹の大きなる長さ一尺あまり節をこめて切つたるが森の中にすてありける。これは彼《か》の鼓にてあるべしと里人のいひあへり。ただ囃《はやし》の音のみにして何の禍ひもなし。月を経てやまず。夏のころより秋冬かけてこの事あり、次第次第に間遠《まどほ》になり、三日五日の間、それより七日十日の間をへだたり、はじめの程は聞く人も多くありて何の心もなかりけるが、後々は自然とおそろしくなりて、翌年《あくるとし》、春のころ囃のある夜は里人も門戸を閉ぢて戸出《とで》をせず、物音高くせざりしなり。春の末がた、いつとなくやみけり」
[#ここで字下げ終わり]
 この怪しむべき囃子の音が、信濃坂を去って、ようやく西にのぼり、ここ武蔵と、相模と、甲斐の国とが、三つ巴《どもえ》に入り込んだ山里のあたりを驚かせているものと見えます。
 このごろ、遠音《とおね》にその音を聞くと、土地の者は、おそれをなして早く戸を締める。ことに上野原の町ではちょうど、火の見柱の下で盗賊が狼に食われた前後のことでしたから、その遠音の囃子《はやし》を一層おそれたものです。
 しかしながら、偶然、足を踏み入れたお銀様にとっては、この囃子の音が、いよいよ人里を近いものにして、足の疲れを忘れさせるだけの力はありましたが、それも行くことやや暫くにして、その囃子の音、ようやく遠くなるような気がしたものですから、またしてもお銀様は小高いところをえらんで、最初に認めた火の光を追おうとしました。
 この山中にあって、今しも、この怪しむべき囃子の音を聞きつけたものは、お銀様だけではありません。三頭山《みとうさん》の連脈を縦走して、熊倉山腹の炭焼小屋附近に露営をしていた二人の者が、同じくこの囃子の遠音に耳をそばだてました。その一人は猟師の勘八と、もう一人は宇津木兵馬であります。
 思いもかけぬ時とところで、囃子の音を聞いたものですから、宇津木兵馬は覚えず目をあげて、音のする方をながめると、猟師の勘八が心得顔《こころえがお》に、
「そらはじまった、お化け囃子がはじまった。久しく止んでいたと思ったら、また、はじめやがった」
「あれは何です」
「お化け囃子といって、ああして響きは聞えても、起るところがわかりましねえ。よっぽど
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