が、どうしても茫漠《ぼうばく》として当りがつきませんでしたが、とにかく、これだけのことをお知らせ申しておいて、また出直しを致そうかとこう考えて、大急ぎで飛んで参ったんでございます」
「一人はハッコツへ、一人はコブシへ?」
「はい、そのコブシというのは、つまり甲斐と武蔵と信濃の三国にまたがる甲武信《こぶし》ヶ岳《たけ》の方面かと存じますが、一方のハッコツが、どうしても見当がつきませんでございます。万用絵図を調べてもハッコツというところはありませんそうで……」
 お銀様も、それに耳を傾けて胸をおさえました。事実、コブシは甲武信《こぶし》に通ずるが、ハッコツは何の意味かわからない。さてコブシの方面へ分け入ったという人と、ハッコツへ向け出立したという者と、いずれがいずれかわからない。
 ともかく、金助をしていうだけのことはいわせてしまったから、お銀様は空辞退《そらじたい》をする金助に金包を持たせ、最後に、あらかじめ、こんなことを尋ねたということを、お角にはだまっているように口どめをして、許してやりました。
 金助は、下へおりるとホッと息をつき、何の意味か舌を出して、こそこそと金包を胴巻へ蔵《しま》い込み、そのまま逃ぐるが如く銭湯へ駈け込んで行ったそのあとへ、お角が帰って来ました。
 お角の帰ったのが遅かったのです。廻り道をしなければ、こんなこともなかったでしょうが、一足遅く戻って見ると、金助は風呂へ飛び出したあとでしたけれど、すべての気配《けはい》でそれと知り、お梅から聞いて軽く頷《うなず》き、
「それでも、つかいようによっては相当に役に立つ」
という、いささかながら誇りの色さえも見えました。そのうち、金助は風呂から戻って来て、歯の浮くような軽口と追従《ついしょう》を並べましたけれど、二階へ呼び上げられたということは、話しもしなければ語りもしません。
 そこで金助は、お銀様に物語った一条を、お角にも漏れなく物語って、ともかくも相当に成功したことを煽《おだ》てられ、やがて大機嫌で、この家を辞して行きました。
 本来ならば、それをとりあえず、お角がお銀様に報告すべき筋合いなのを、どうしたものかお角はヒドクおちついて、待ち兼ねている人を持っている態度とは見えません。ようやく二階へ伺候《しこう》して話を切り出したには切り出したが、金助がお銀様にあらかじめ白状してしまった要領には触れずに、巧妙ないい廻しをして味を持たせたつもりで下へおりて来ました。
 これはお角としては、甚だしい手ぬかりで、すっかり裏を掻《か》かれていることを気がつかないで、すべてを手の内へまるめておく気取りでいるのが、笑止《しょうし》といわねばなりません。
 この一件にしてからが、お角としては最初から、金助のようなおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]を使わずに、七兵衛なり或いはがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵なりに頼むべきはずのところを、なにしろ、あの二人あたりは役に立つ代りに、役に立ち過ぎる憂いがある。おっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]ながら、金助ならば使ってさのみ毒になるまいと、たかをくくったのがお角の誤りでした。おっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]は到底おっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]以上のことをしでかさず、味のあるところを、前以てべらべらと喋《しゃべ》ってしまったのですから、お角に残されたところは骨と皮ばかりです。それを骨とも皮とも知らずに、たんまりと貯えているつもりのお角の気取り方は、近来にない失策です。
 しかし、その失策は、翌日の夕方まで現わるることなくておりました。その翌日になるとお角は、前の日のように、娘分のお梅をひきつれて、向両国の興行場へ出かけ、お銀様には一人で留守居をさせておきました。
 こうして昨日と同じように、甘んじて一人で留守をうけごうたお銀様は、お角母子が出て行ってしまうと、急に手紙を書きはじめ、それが終ると、そわそわとして身の廻りをこしらえにかかったのを見ると、着ていた今までの女衣裳を脱ぎ捨てて、戸棚から取り出した行李《こうり》の蓋《ふた》をあけて、着替えをして見ると、それは黒紋附の男物ずくめであります。その上に袴まで穿いて、なお戸棚の奥から取り出した細身の大小一腰、最後に寝るから起きるまでかぶり通しのお高祖頭巾《こそずきん》を、やはり男のかぶる山岡頭巾というものにかぶり直して、眼ばかりを現わしました。
 で、立ち姿を見ると、それと知ったものでなければ立派なさむらい[#「さむらい」に傍点]の微行姿《しのびすがた》です。今にはじまった着こなしとは誰にも思われない。お銀様はこの仮装には慣れているらしい。
 男の姿になりすましたお銀様は、あとを取片づけ、脇差をたばさんで刀を提げ、ずっしずっし[#「ずっしずっし」に傍点]と下へおりて行きました。
 まもなく、この家をいくらも離れないところで、辻駕籠《つじかご》を呼ぶ同じ人の姿を見かけます。

         七

 西洋大魔術が初日の蓋をあけた日の晩、本所相生町から芝の四国町へかけて、浪士が火をつけて歩いた晩――また親方のお角が大城屋にお大尽を訪ねた晩。
 小石川の切支丹屋敷《きりしたんやしき》に近い御家人崩れの福村の家では、福兄《ふくにい》とお絹とが、さしむかっての痴話《ちわ》。
 脇息《きょうそく》の上へ両臂《りようひじ》を置いて、腮《あご》をささえた福村は、
「なんにしても、あの女の腕は驚嘆に価する、無から有をひねり出す芸当は、魔術以上の魔術だ、天性、興行師に出来ている女だ」
と言って賞《ほ》めそやすのを、お絹がつんと横を向いて、
「恥と外聞を捨ててかかりゃ、何だってできないことはありませんよ」
 福村がこの場で賞《ほ》めそやしたのは、無論女軽業の親方のお角のことであります。すべて女の前で女を賞めるのは禁物にきまっているうちに、このお絹という女の前で、お角を賞めそやすのは、油屋の前で火事を賞めるようなものであります。それを知りながら福村が賞讃をあえてするところを見ると、ともかく、よくよくあの女の手腕《うで》に感心したものがあればこそと思われる。
「ところが今度という今度は、恥も外聞も捨ててかからないんだからな。渡りはつけてみたが、トテも昨今のあの女の手には負えまいと、こう見くびっていたところが案外なもので、物の見事に背負《しょ》いきったのみならず、その手際のあとを見せないあざやかさには、全く恐れ入ったよ。たしかに手腕《うで》はある女だ」
「そりゃあ、蛇《じゃ》の道は蛇《へび》ですから、血の出るような工面《くめん》をしても、一時の融通はつきましょうさ。その日その日の上りを見込んでする山仕事と、末の見込みをつけてやる仕事とは違いますよ。線香花火みたような仕事を喜ぶのは子供みたようなものでしょう、女だてらに山かん[#「山かん」に傍点]は大嫌い」
「してみますと、お絹様、あなた様は、末の見込みのついた仕事をやっておいでになりますのですか」
「存じません」
「お怒り遊ばしますな、なにも、拙者があの女を賞めたからとて、あなた様をケナ[#「ケナ」に傍点]すわけでもなし、また、あなた様に、あの女のような真似をしていただきたいというわけでもなし、性質は性質としてただ、その手腕《うで》のあるところだけを賞めたのだから、あえて、お咎《とが》めを蒙《こうむ》る筋はあるまいと存じます」
「ああ、うるさい、それほど腕のあるのがお好きなら、観音様へおいでなさい、観音様には腕が千本ある」
「もう、腕の話はやめ……それはそうとしてお絹さん、お前も、恩怨《おんえん》の念は別として、ぜひ一度あの一座を見てお置きなさい、たしかに前例のない見物《みもの》、また後代ちょっとは見られないものですよ。相当の身分ある者が、微行《しのび》でいくらも見に来ています。昨日《きのう》はまたあれで思いがけない人を見出した、多分そうだろうと思ったが、見直そうとしている間に消えてなくなったが、あの男をあんなところで見かけようとは意外千万」
「誰ですか」
「あなたも御存じでしょう、番町の駒井能登守」
「エ?」
 不平満々で横を向いて絵本の空読みをしていたお絹が、この時、思わず向き直ると、福村が、
「甲府の勤番支配をしていた男、神尾主膳と喧嘩をしたとか、しないとかいう男……甲府をしくじっ[#「しくじっ」に傍点]てから切腹したとか、行方不明とかいわれていた駒井の姿を、ちらとあのとき見かけたので、拙者にはグッと思い当ったことがあるのだ。ははあ、女軽業の親方お角のうしろにはあの男があるのだな、して見ると、あの時分、お角が柳橋あたりで、専ら由緒《ゆいしょ》ありげな人物とあいびき[#「あいびき」に傍点]をしていたという噂が、ぴったりと当てはまる。虫も殺さぬような面《かお》をして、あれで駒井もなかなかの食わせ者だが、これを擒《とりこ》にしたお角の腕も確かに凄《すご》い。いやまた腕の話になって恐縮」
 福村は腕を枕にゴロリと横になる。お絹は相変らず絵本の空読みをしている。ところへ女中が手をついて、
「お客様でございます」
「誰か」
 福村が肥った身体を大儀そうに起すと、
「百蔵さんとおっしゃいます」
「ナニ、がんりき[#「がんりき」に傍点]が来たか」
 福村も起き上っておちつかない心持、お絹も思わず本をさしおく。
「そうら、腕のある話がハズミ過ぎたものだから、腕のない奴がやって来た――まあ仕方がない、来たものを帰れともいえまい、帰れといっても帰る奴ではない、かまわぬ、ここへ通せ」
 女中が出て行ったあとで、福村とお絹とが面《かお》を見合わせる。
「奴、何の用で来た、今時分」
「何の用ですか」
 二人はうす気味の悪い心持でいると、そこへ案内されたのは、
「へえ、これはお二方《ふたかた》、永らく御無沙汰を致してしまいました」
「ナーンだ、金公か」
 五分月代《ごぶさかやき》に唐桟《とうざん》の襟附の絆纏《はんてん》を引っかけて、ちょっと音羽屋《おとわや》の鼠小僧といったような気取り方で、多少の凄味を利《き》かせて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が現われることを期待していると、意外にも、それはおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]の金公でしたから、二人も拍子抜けがしているのを、委細かまわず金助は、
「ちょっと旅に出ていましたものですから、つい、何しまして……御無沙汰を仕《つかまつ》りました」
「どこへ出かけていた」
「お馴染《なじみ》の甲州街道筋をぶらついて参りました」
「面白いみやげ話があらば聞かしてくれ」
「なんせ、山ん中のことでございますから、面白いみやげ話とてありよう道理はございませんが」
と冒頭《まくら》を置いて、金助はべらべらと締りもなく、お角に頼まれて出かけたことから自分の手柄話、結局、このたびの大魔術のことになって、お角という女の親分肌を、口を極めて讃美にかかりましたから、お絹がいよいよ不機嫌になってしまいました。
 来る奴も、来る奴も、ロクなことはいわない。この女の前で、ほかの女、ことにお角を讃めるのは、この女をコキ下ろす結果になるということを、御当人ほどに誰も気がつかない。お角の腕を認めるのは、つまりこの女の働きのないことを当てこす[#「こす」に傍点]る意味になるのを、誰も御当人ほどに受取らない。
 そうでなくても、このごろは、食い足りないことばかりで、焦《じ》れったがっている。当座の安心のために、福兄に身を寄せてはいるが、福兄に、わが物気取りでヤニさがられているのが嫌だ。
 そうかといって、謀叛《むほん》を起そうにも、今はちょっと動きが取れないことになっている。当座の腐れ縁とはいえ、一人の男を守っている現在の意気地なさに、自分ながら愛想《あいそ》がつきる。それも大した男ならトニカク、福兄あたりでは自慢にもならない。ところへ、向《むこ》う河岸《がし》では盛んな景気で、思う存分の腕を揮《ふる》っている上に、聞き捨てにならないのは、お角が駒井能登守ほどの男を自由にしてい
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