命は、死んだ主人を守ることだけで尽きたのか。そうだとすれば、自分は当然|殉死《じゅんし》すべき運命のもので、今の生存は惰力に過ぎないのか。それとも、まだまだ生きとし生けるものの一生には、生かされてある間に、その使命が尽くるということのないものとすれば、第一の使命終って第二の使命は何。この犬は極めて謙遜、且つ従順の態度を以て、それを聞こうとしているようにも見える。自然、この犬には、主人の墓側で食を断って死ぬという古《いにし》えの忠犬に超出した高尚のふうが見える。
 とまれ、この一行、お松は香と花を携えて先に立ち、乳母《ばあや》は登を抱き、与八は郁太郎を背負《せお》い、ムク犬はその間を縫うて、例の回向院の墓地の中に進んで行きました。

         二十七

 この一行が回向院の墓地へお墓参りに来た日、その境内《けいだい》の西洋奇術大一座がちょうど千秋楽の日でありました。
 この興行は、大入り満員の売切れつづきで、すばらしい人気を博したのみならず、その人気に該当《がいとう》する実質を、見る人に与えたようです。たしかに、今までに見ないものを見せ、見た者を堪能《たんのう》させるだけの内容をそなえていたに違いない。
 しかし、太夫元のお角は、興行が成功したほどに嬉しそうな面《かお》を見せないで、どうかすると癇癪《かんしゃく》を起して当り散らすこともあるようです。といって、そのくらいはどうも仕方がない。最初の期待では、まかりまちがえば骨になるくらいの度胸をきめていたのが、せっかく彫り上げた骸骨に牡丹の刺青《ほりもの》が役に立たず、諸肌《もろはだ》押しぬいでタンカを切る物凄い場面も見せないで済んだのが、何よりというものです。
 お松、与八、ムク犬の一行が、回向院の墓地についた時分は、ちょうど、千秋楽の追出しの時刻で、今しも、場内にのまれていた幾千の観客が、潮《うしお》のように吐き出される時でした。
「オレ[#「オレ」に傍点]のだい、オレ[#「オレ」に傍点]のだい、オレ[#「オレ」に傍点]の下駄だようッ」
 下足場の人ごみの中で、おそろしく下卑《げび》た太い声でわめき出したのが、キッカケで、そこから大混乱が起ったところです。
 なんでも下駄を間違えたやつを、一人がなぐり飛ばしたのが原因《もと》で、芋を揉《も》むような下足場が、忽《たちま》ち修羅《しゅら》の巷《ちまた》となってしまいました。
 そこで、取組み合い、なぐり合い、引掻き合いが見ているうちに起り出し、女子供は泣きさけんで救いを求めるの有様です。
 高いところで見ていたお角は、直ぐにその目の下の混乱によって、また始めやがったなという苦々しい表情です。
「オレ[#「オレ」に傍点]のだい、オレ[#「オレ」に傍点]のだい、オレ[#「オレ」に傍点]の下駄だってえばよう」
 下卑た声が甚だしい耳ざわりで、混乱の中から起るのを聞いていると、たしかにこの混乱の原因は、下駄の擁護から起っているらしい。人より三分間ばかり下駄を後に穿《は》くか、先に穿くかという問題から、なぐり合い、つかみ合い、引掻き合い、取組み合いが起ったものらしい。どうもそのほかには、お角にも原因らしいものが見当りません。
 幸いに、お角は少しばかり高いところにいたものですから、この混乱の現状を、活動写真を見るよりも鮮やかに見て取ることができました。しかし、お角は、この騒ぎは、甲府の一蓮寺の時のように、大事《おおごと》にはならないと見て取りました。混乱するだけ混乱させ、取疲れるまで取組ませておけば、おのずから静まる性質のものだと、タカ[#「タカ」に傍点]をくくっていたのです。
「オレ[#「オレ」に傍点]のだい、オレ[#「オレ」に傍点]の下駄だと、先刻《さっき》からいってるじゃねえかよう」
 こういう場合の噛《か》み合いの特長は、きまった相手というものがなく、最も手近なところにあるありあわせの頭がその相手であります。喧嘩の上手というのは、最も僅少の時間に、最も多くの頭をなぐり、素早く身をひく人間のことで、その最も拙劣なのは、最も多くなぐられながら、その一人の相手をもつかまえることのできない人間であります。
 しかし、下手も上手も、共に一時《いっとき》で、お角の見込み通り大事に至らずして、やがて、この活劇もおしまいになり、千秋楽のお景物として、一つの愛嬌を添えたもののように消滅してしまったのは、いよいよ市《いち》が栄えたと申すものです。
 それをお角はひややかに笑い捨てて、ざっと場内をめぐり歩くうち、ふと、例のところへ来て、場外を見ると、以前にながめた通り、そこは回向院境内の墓地であります。
 お角のながめることがもう少し早かったならば、そこに以前の一行がおまいりに来ていて、ことにその中には、お角の熟知しているムク犬も加わっていたことだから、お角とてもだまってはおれなかったろうが、この時はもう一行は去って、誰もおらず、ただ香のけむりが断々《きれぎれ》としてのぼっていることによって、お角はまたあのお墓へ誰かおまいりに来たなと思っただけでした。
 あのお墓へは、駒井甚三郎もお参りに来たし、今日もまた誰かお参りに来たようだが、いったい誰の墓なんだろうと軽くお角の頭にのぼっただけで、それ以上には想像を逞《たくま》しくすることがありませんでした。
 もう少し深く突きとめて、これが、嘗《かつ》ては自分の下に使ったことのある、お君という薄命な娘の、地上における存在の記念であると知ったならば、お角とても、そのままにはしていなかったろうに――
 今のお角には、お君という女の死生《ししょう》も知らず、まためまぐるしいこのごろの生活では、ホンの少しばかり念頭に上って来ることさえ極めて稀れであったのです。
 それで、あっさりと、それだけが頭脳にうつっただけで、やがて階《きざはし》を下って、土間から楽屋の方へと進んで行くと、楽屋の入口でやかましい人の声。
 その声を聞きつけて、お角は忽《たちま》ち気取《けど》ってしまいました。
 寄生虫がやって来たな。
 興行界を渡りあるくゴロがやって来たな、今まで来なかったのが不思議だが、果してやって来た、千秋楽を見込んでやって来たからには、ただは動くまいと、お角は度胸をきめてその方に出向くと、
「親方!」
 ゴロが早くも認めて呼びかけました。その背後には四五人の同勢がいる。
「何です」
「おめでとう、大当りでおめでとう。だが親方、いいことの裏には悪いことがある、あんまり当り過ぎると罰《ばち》が当るから、用心しなくちゃいけねえぜ」
「大きに有難う、それがどうしたというの」
「勝って兜《かぶと》の緒を締めろとはここなんだぜ、親方」
「何だかわからないよ」
「高い木は風に揉まれるというやつさ……親方が大当てに当てたもんだから、世間から目ざされるようになったんだ。世間から目ざされるようになるとあぶない」
「何があぶないんだエ、なにもわたしは、世間様から目ざしてもらおうともなんとも思っちゃいないんだよ、名前を売りたいとか、親分になりたいとか、そんな了見《りょうけん》でやってるんじゃありませんからね、商売でやってるんだから、当ることもありゃ、外《はず》れることもありまさあね」
「まあ、そう、ポンポンおいいなさるな、親方のためと思えばこそ、こうしてやって来たんだから」
「大きに御苦労さま……何か、わたしを暗討ちにでもしようという噂があるんですか」
「そういうわけじゃねえがね、つまり、人気をしめた時は、財布をあけろというたとえがあるでございましょう、そこですよ、世間の口がうるさくっていけねえ、ばかばかしいようなもんだけれど、そこがそれお愛嬌で、如才なく立廻らないと損ですからねえ。早い話がわっしたち四五人が、これから盛り場を廻って、女軽業の親方はこれこれだと触れ廻ってごらんなさい。白いものでも忽《たちま》ち黒くなり、黒いものでも忽ち白いものになりますからね」
 お角もこの道の苦労人ではあり、馬鹿ではありませんから、この連中を相手に争っては損だということぐらいは知っています。事実、この連中が気を揃えると、場合によっては、せっかくの名興行師を塗りつぶすこともできるし、また一夜作りの千両役者を仕立てて、世間をオドカすこともできるのだから、お角の気象としてはこの場合、鎧袖一触的《がいしゅういっしょくてき》にやってみたいのだが、鎧袖一触も用いようによっては大笑いの種ですから、あまり力《りき》まないのがよいと思いました。そこで、
「御尤《ごもっと》もでございます、なにぶん行届かない我儘者《わがままもの》でございますから、この後ともによろしく。どうかまあ、こちらへお上りくださいましな」
といって、丁寧に上へ招じたのは、お角としては気味の悪いほどの如才なさです。
 いつの世、いかなる社会にも、寄生虫というものは絶えたことはないが、真正の批評家は極めて稀れである。
 寄生虫は、瓦礫《がれき》を鍍金《めっき》して、群衆に示し、共謀して、それをなるべく高価に売りつけようとする。そうして、蔭で舌を吐いていう、
「こんな代物《しろもの》でも、おれたちの手にかかれば、これだけの高値《たかね》に売れる」
 寄生虫のいいたいことは、これだけである。為し得ることもまたそれだけである。
 けれども、独特の生活力を有していない生物は、どうかするとこの寄生虫に食われてしまうことがある。
 招かざるに来《きた》るバラサイト。
 わが親愛なるお角さんを、こういうもののために苦心させたくない。
 自分を、タカ[#「タカ」に傍点]の知れた女軽業の親方以上には評価していないお角さんは、自分の仕事の性質を、ジョン・ラスキン氏のところへ聞きに行くわけにもゆかず、タンカ[#「タンカ」に傍点]は切ってみるものの、そこは女の身、ガラリと折れて寄生虫の四五人を上座に招じ、厚くもてなした上に、おみやげまでも調えて、帰る時は先へ廻って下駄まで揃えて帰したお角さんは、憎むべき人でもなんでもなくて、ほんとうに可愛い人ではありませんか。
 こうして西洋大奇術は千秋楽となり、その翌日、与八とお松の一行は、沢井へ向って出立すると、まもなく、御老女はまた多くの供をつれて、上方《かみがた》へ出かける。それがすむと、集まるほどの浪士たちが、ずいぶん仰々しい勢いで、この屋敷を引払いました。
 浪士たちの行くところは、無論、芝の三田の四国町の薩摩の屋敷でありました。
 浪士たちが、半ば示威運動みたような勢いで、花々しくこの屋敷を引払うと、その晩のことに、火が起って、この屋敷を焼き払ってしまいました。
 その火の起りについては、浪士たちが自分でつけて去ったのだという説もあれば、市中取締が焼き払ったのだという説もあって、どちらがどうだか、よくわかりません。
 しかし、この屋敷一軒だけで食いとめたのはまだ幸いでありました。附近の人は、むしろこの立退きと、焼払いをよろこんだようです。これで相生町の名物が、一つなくなったわけですが、危険区域が移転したような心持で、近所の人が枕を高くしたのも、無理のないところがあります。けれども、原則からいって、一方に消滅したものは、必ず一方に増加するわけですから、次には芝の三田の四国町の薩摩屋敷に、また一層の危険分子が加わって、江戸市中の脅威になるという結果になるかも知れない。
 実際、薩摩屋敷に集まるものの目的と行為は、江戸の市中を脅威したり、愚弄したりするために存在しているような形でありましたが、そうかといって、これを一概に、暴民暴徒の巣のようにいってしまうのは誤りです。また、こういうものを存在せしめた策士の横暴を、無条件に憤るのも当らないことであります。
 薩摩屋敷へ浪士を集めたのは、西郷隆盛と後の板垣退助も関係していたということでありますが、徳川幕府を倒さねばならぬという志士浪人の頭に、同時にひらめくのは、いつも徳川と薩摩との仲をよくさせてはならないということでありました。
 徳川家と薩摩とは、姻戚《いんせき》の関係もあったりして、どうかすると黙契が成立しそうになる。もしも薩
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