、若先生の方も少しばかり……」
「そうだろう、七升は飲めまい」
妙に七升を振りまわすさむらい[#「さむらい」に傍点]だと思いました。また事実、飲めようと飲めまいと大きなお世話です。米友ならば食ってかかるのだろうが、与八は、おとなしくそれを聞き流していると、件《くだん》のさむらい[#「さむらい」に傍点]はいっこう無遠慮に、
「どうだ、この道場へはお化けが出るという話だが本当か」
「そんな噂《うわさ》がありますか」
「あるとも、武州、沢井の机の道場には夜な夜なお化けが出る、それで誰も道場を預かり手がない――という噂を聞いて、わざわざたずねて来たのだ」
「へえ、この近所に住んでいるものは、そんなことあ言やしません」
「ともかく、今晩はここへ泊めてもらいたいものだ」
件《くだん》のさむらい[#「さむらい」に傍点]は、道場の板の間の真中へすわりこんでしまいました。
「おとまりなさいまし、お化けなんぞは出や致しません」
与八はおとなしく、この無遠慮なさむらい[#「さむらい」に傍点]の言い分を受入れました。
こういう無遠慮なさむらい[#「さむらい」に傍点]ですけれども、与八は逆らわず、望み通り、この道場に泊めてやることにして、もてなし[#「もてなし」に傍点]ましたから、さむらい[#「さむらい」に傍点]は大喜びであります。
机の道場にはお化けが出る……与八は初めて聞く噂だが、なるほどありそうな噂だと思いました。自分の耳に入らないだけで、専《もっぱ》らそういう噂が響いているのではないかと思いました。
そうして与八は、さむらい[#「さむらい」に傍点]のために夕食を運んで、自分は水車小屋へ帰ってしまったあと、件《くだん》のさむらい[#「さむらい」に傍点]は、やはり道場の真中に莚《むしろ》を布《し》いて坐り込み、その前には与八の運んだお膳と、それから、いつのまに、どうして持ち込んだか一升徳利を押据えて、まず一杯を試みて舌鼓を打ちました。
ほどなく一升の酒を平げ、飯を食い――終ると、膳を押片づけて、行燈《あんどん》を掻《か》き立て、謡《うたい》をうなりはじめます。
謡い終ると、立ち上って、道場の壁にかけた木刀を取って、型をつかい、つぎに、槍、棒、薙刀《なぎなた》、千鳥鎌の類に至るまで、いちいち手に取って、その型をつかい、それが終ると、肱《ひじ》を枕にして横になりました。
このさむらい[#「さむらい」に傍点]は何のために来たか。多分、ここの剣術の名を以前に聞いていて、ちかごろは無住で、お化けが出るというような噂に興が乗り、半ば好奇心が手つだって、道を枉《ま》げてたずねてみたものと思われる。
しかし、夜が更《ふ》けて行くと、多摩川の流れの音が、冴《さ》えて聞えるだけで、別段、お化けも出なければ、幽霊も現われず、あたら英雄も髀肉《ひにく》の嘆《たん》に堪えない有様です。
暫くするとコトリと、道場の隅に物音。屹《きっ》とそちらを振向くと、食い残した食膳に一匹の鼠がはいかかっている。なんだ、泰山鳴動《たいざんめいどう》もせずに鼠一匹。
さむらい[#「さむらい」に傍点]は、手裏剣を抜いて、その鼠めを仕留めてやろうと、狙《ねら》いを定めたが、この手裏剣が惜しい。鼠一匹の代価に、この手裏剣を再び研《と》がせるのは愚だ。しかし、つれづれのおりから、よい相手だ。一番仕留めてやろうかな……鼠を打つに器《うつわ》を忌《い》むとはこれ。
「叱《し》ッ」
叱りつけると、鼠は膳を飛び下りて道場の隅を走る。暫くあって、また、こそこそと舞い戻ってくる。
「叱ッ」
追えば、追われた当座だけ逃げて、また戻って来る。
美濃の大垣の正木段之進は、こうして鼠をにらみ[#「にらみ」に傍点]すくめて動けなくしたということが東遊記に書いてある。このさむらい[#「さむらい」に傍点]は、鼠一匹を相手に、追いつ追われつ興がっているが、やはり、器《うつわ》を忌《い》むの心で手裏剣は切って放さない。思い直したと見えて、それを脇差にはさ[#「はさ」に傍点]んでしまい、体を斜めにして、傍《かた》えの木剣を引寄せて、今度来たならば一撃の下《もと》にと身構えしているとは知らず、三度目にこそこそと板の間の隅を走る鼠。
途中まで来て、踏みとどまってこちらを見ました。その瞬間、さむらい[#「さむらい」に傍点]が、初めてゾッとして、構えた木刀を思わず取落そうとしたのは、踏みとどまってこちらを見た鼠の面《かお》が、その時、ずんと伸びて、ほとんど人面と同じほどの大きさに見え、じっと眼を据えて、こちらを睨《にら》み返したからです。
「何を……」
再び、その木剣を取り直した時は、もう鼠の姿は見えず、ただなんとなく、寒気《さむけ》が全身を襲うて来るのみです。
そこで、さむらい[#「さむらい」に傍点]はなんだかばかばかしくもあり、いやな気にもなって、木剣を抛《ほう》り出し、そのまま頭をかかえて横になるとまもなく、軽いいびき[#「いびき」に傍点]で寝入ってしまいましたが、ずん[#「ずん」に傍点]と大きく、人間と同じほどに伸びた鼠の面《かお》だけが、夢の中に残って、夜もすがらおびえた[#「おびえた」に傍点]そうです。
二十六
その夜は、それだけで無事に明け、翌日、右のさむらい[#「さむらい」に傍点]は、御岳山へのぼるといって立去りました。
与八が、急に江戸へ出かけたくなったのもその時で、それは今になって、お松の先日いった言葉をつくづく思い出したからです。お松さんのいうのには、あのお屋敷では御老女様に大へん可愛がられているが、本来、あの屋敷というのが、国々の壮士浪人の集まりで、いつ解散されるのだかわからない。もしや御老女様が遠方の国許《くにもと》へでもお帰りになってしまったあとは……と、それとなく身の行末に多少の不安を述べたのを、与八は耳にハサんでは来ましたが、もともと鈍感な男のことですから、今頃になって漸くそれを痛切に思い出し、わけを話して、こっちへ来て下さいといえば、来てくれない限りはあるまい……そう思い立つと、正直な心から、一刻も早く江戸へ出かけて、お松に念を押してみたくなったのです。
お松の方でも、与八の推察通り、今、自分の身の上について、多少の不安を感じているところです。
駒井甚三郎は、ムク犬の通知によって直ちに出向いてくれました。そうして、初めて持ったわが子というものに、母として、親としての一切の仕事を、お松に頼んだのであります。お松としては、頼まれなくてもこの子をてばなす気にはなれません。駒井甚三郎は、それがためにかなりおおくの費用をお松の手に渡して行きました。お松は、それを辞退しましたけれども、辞退すべき性質のものでないと諭《さと》されて、いさぎよく預かっておきました。
乳母《うば》を一人雇うて、念入りにそだてて、朝夕その子をだきかかえて楽しみにしていましたけれど、不安というのは、この屋敷で、どうもおだやかでない人たちの出入りがはげしく、自然、その筋でもめざされているし、いつきりこみがあるかわからない、というものもあるし、早晩、焼討ちになるだろう、と沙汰《さた》をするものもあるくらいですから、お松はそれが気にかかってなりません。御老女様はしっかりしておいでなさるし、集まるほどの人も血気の人には相違ないが、そう悪いことをする人たちではありませんから、危ないことはなかろうと思うけれど、万一、このお子さんに怪我があっては、という心配が絶えたことはないのです。
そこで或る日、お松は自分の部屋で赤ん坊を抱き、
「登様、あなたは田舎《いなか》へいらっしゃいますか、田舎はおいやですか」
と話しかけました。
話しかけたって返事のできるわけはありませんが、つい口に出て、
「おいやでなければ、田舎へお連れ申しましょうか。田舎といっても、そんなに遠いところではありませんよ、与八さんのいるところ」
坊やは、じっ[#「じっ」に傍点]とお松の顔を見て、笑いもしないでいるものですから、
「御存じでしょう、与八さんを。あの肥った、親切な人……」
その時、坊やは両手をおどらせて、うれしそうに笑いました。
「登様、もし、あなたがおいやでなければ、わたし、これから手紙を書いて、与八さんのところへ使を頼みますわ。与八さんはよろこんで承知をして下さるでしょう。ですけれども、もし、あなたがおいやですと……田舎に住んでいては出世のために悪いようですとつまり[#「つまり」に傍点]ませんから、いつまでもこっちにいましょうね。どちらに致します」
といって、お松は登の顔にほおずり[#「ほおずり」に傍点]をしました。どちらに致すも致さないもありはしない、生れてまだ幾月もたたない子。思案に余ったことがあるものですから、お松はしきりに、このおさな[#「おさな」に傍点]児に話しかけているのです。
「それは御老女様はえらいお方だし、このお屋敷は結構なお屋敷ですけれども、なんだか世間が騒がしいものですから、あなたや、わたしは暫くあっちへ行っていた方がいいかも知れない」
お松の心を、ドチラにかきめてしまわねばならぬ時節がまもなく来ました。
それはいよいよこの本所の相生町の老女の屋敷を引払わねばならぬ時が来たからです。噂《うわさ》によると、土佐の乾退助《いぬいたいすけ》という人が来て、ここに集まる浪士にすすめて、四国町の薩摩屋敷へ併合せしめたということです。
そうして、お松が主としてつかえた老女は、本国へ帰る途中、ひとまず京都に滞留するのだということです。
老女はどこまでもお気に入りのお松を手放したくはありませんでしたけれど、お松としては、すべての事情が、それを辞退して、別な生活に入らねばならぬ時と考えました。
とりあえず、乳母と、登と、自分と三人で、しかるべき家を借りて一世帯を持つことがいちばん賢明で、それで女手の生活に不安があるならば、与八のところを頼もうというのが、第二の考えでありました。
しかし、第一の考えからお松を急に、第二の考えに飛ばせてしまった事情は、立退き以前にこの屋敷を押囲んで焼打ちがあるという噂と、ちょうどこの際、与八がわざわざたずねて来てくれたことであります。
お松は、京都でも、江戸でも、この時代の不安な空気の中に住み慣れてはいましたが、自分ひとりの身ならばともかく、偶然ながら子持ちの身になってみると、今日は暗殺、明日は焼討ち、といったような空気が、そら恐ろしくなって、この屋敷に住んでいる以上は、自分たちもめざされはしないかという取越苦労なども起っていたところへ、与八がやって来て相談をかけたものですから、それに従うのが、いちばん安心だと、その場で心をきめてしまいました。
心がきまれば話は早い方がよいと、お松はそのつもりで御老女に暇乞《いとまご》いをすると、御老女も惜しみながらゆるしてくれました。そこで、与八のいるうちに出立の用意をととのえて、馬や駕籠《かご》も頼み、当分の間、乳母《ばあや》も附いて行ってくれるとのことだから、なお安心して、すべては非常に調子よく捗《はかど》ってしまいました。
そこで、この連中は、打揃って、程遠からぬ回向院《えこういん》の境内《けいだい》に、お君の墓参りをして行こうと、花と香とを携えて、門を出ようとする時に、どこからともなくムク犬が現われました。
「ムクや」
それ以来、ムク犬は使命を果して、房州から帰ったには帰ったが、人に姿を見せることが極めて稀れで、必要に応じてはどこから出るともなく出て来て、必要に応ぜざればどこに隠れているともなく、隠れていて出て来ない。
今、この人たちがうちつれて旧主の墓参りに出かけようとする時に、ヒョッコリ姿を現わしたので、一同の者がこの犬の出現を、いたくよろこび迎えました。
しかし、当の犬は、喜べる色もなく、勇める風もなく、一行の中にまじって、その行くところへ共に行き、その止まるところへ共に止まろうとする、柔順な態度に見ゆる。
ムク犬のこのごろは、我と我が生存の意義を見出そうとしているげに見ゆる。わが使
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