摩が徳川をたすけることになると、せっかく倒れかかった徳川の家に、有力な根つぎが出来た結果になって、そうなっては天下の改革の時がおくれる。徳川と薩摩とを握手させてはならない。江戸の市民をして、薩摩を憎ましめるように、薩摩をして、幕府を脅威せしめるようにしかけなければ、大事をあやまるの形勢となることを、志士浪人の間には深く考えていたものがあるのです。
 後の鳥羽伏見の戦いも、一は、この四国町の薩摩屋敷の焼討ちが、退引《のっぴき》させぬことにしたので、志士浪人の計画は、思うように的中し、明治の改革には、これがまた有力な動因とはなっているが、表面上、その形勢を見れば、暴悪の徒を蓄えて、江戸の上下を脅威愚弄した傍若無人ぶりに、腹の立つのも無理のない次第でした。
 何事もみな、歴史の大きな潮流の現われに過ぎません。少なくとも関ヶ原の戦いまで遡《さかのぼ》らねば、事の是非善悪は、たやすくは説明のできないことであります。
 さても、相生町の老女の屋敷は、構えが相当に大きかっただけに、天明までも燃えつづいておりましたので、見物は山のように群がりました。なかには、これを痛快がって、このついでに三田の四国町まで押しかけて、薩摩屋敷を焼き払えというものもありましたが、また一方には反対に、江戸の市中を焼き払われないようにと、心中におそれ[#「おそれ」に傍点]を抱くものもありました。
 高尾の山で、七兵衛と泊り合わせた神楽師の一行が、ちょうどここへ来合わせたのは、まだ余燼《よじん》が盛んに燃えている早朝のことで、この有様に意外な感じをしたが、さあらぬ体《てい》で、これも三田の方面へ踵《きびす》をめぐらしたから、誰もあやしむものはありません。

         二十八

 ここはどこだか知らない。机竜之助は何里つづくとも知れない大竹藪《おおたけやぶ》の中をひとりであるいている。
 この時は夜です。身に白衣《びゃくえ》を着て、手には金剛杖《こんごうづえ》をついている。この大竹藪の夜は、幸いにして見通す限り両側に燈籠《とうろう》がついている。
 この時は、眼が見えるのです――それに程よい間隔を置いて、両側に立てられた四角な燈籠の光が、朦朧《もうろう》として行手を照らしている。その光は青くして白い色がある。
 けれども、いくら歩いても同じ大竹藪で、いくつ燈籠を数えてみても、みな同じ形で、同じ光で、同じ色に過ぎない。これでは、歩いても、歩かなくても、同じようなものだ。
 ただ、足がなんともいえず軽快である。同じような藪の中と、同じような燈籠をいくつ数えて歩いても、疲れるということを知らない。そこで、おなじような道を歩む。
「もし」
 ふと、その燈籠の一つの下で人影を見出したから、歩みをとどめて竜之助が問いかけました。
「これは真直ぐに行ってよいのですか」
 問われたのは女の子です。髪をかむろ[#「かむろ」に傍点]に切りまわし、秋草をおぼろ染め[#「おぼろ染め」に傍点]にしたような単《ひとえ》の振袖を着て、燈籠の下に小さく立っていましたが、竜之助にたずねられて、ニッコリとさびしく笑い、
「どこへおいでになりますか」
「白骨《はっこつ》の温泉へ……」
「白骨……そんな温泉はこの近所にはございませんよ」
「ない?」
「ええ、ハッコツなんて名前の温泉は、この近所にはございません」
「ないはずはないのだが……」
「それでは字に書いて見せて下さいな」
 請《こ》われて竜之助は、金剛杖を取り直して、地上に、「白骨」の文字を認《したた》めました。その白骨の文字が、なんという鮮《あざや》かな青味を持っていることでしょう、さながら、翡翠《ひすい》の光を集めたようにかがやきましたので、竜之助もその文字に見入りますと女の子は、
「それはハッコツとお読みになっては違います、シラホネと読むのでございます」
「どちらでもいいではないか」
「いいえ、シラホネとお読みにならなければ違います」
「それでも、白馬《しろうま》ヶ岳《たけ》をハクバと読むように……」
「白骨《しらほね》の温泉は、昔|白船《しらふね》の温泉といいました、それを後の人がシラホネと読むようになりました。それをまたハッコツとお読みになったのでは人が迷います」
「では、そのシラホネへ行く道は?」
 竜之助が、素直《すなお》に問い返しますと、路上に記された「白骨」の文字を、またたきもせずに見ていた女の子が、
「そうですね……やっぱり、ハッコツの方がようございますか知ら。シラホネと読むのも、ハッコツと読むのも、同じようなものですけれど……」
 竜之助の問いには答えないで、女の子はしきりに文字の末に拘泥《こうでい》していますから、
「読み方はドチラでもよろしい、わしは、ただそこへ行く道を知りたいのだ」
といいますと、女の子は、
「それを教えて上げましょうけれど、あなたは白骨の温泉へ何しにおいでなさるの」
「身体《からだ》を丈夫にするために……」
「身体を丈夫にして、何をなさるの?」
「それは……」
「身体を丈夫にして……」
「…………」
 ふと少女の立っていた燈籠《とうろう》の火が消えました。一つ消えると、すべての火がことごとく消えてしまいました。
 竜之助は、こましゃく[#「こましゃく」に傍点]れた女の子だと思いました。
 しかし、燈籠が消えては一歩も進むことができない。
「お待ちなさい、今、燈火《あかり》を持って来てあげますから」
 まもなく、蛍火ほどの線香を掲《かか》げて、以前の燈籠に火を入れると、その燈籠の形が髑髏《どくろ》になりました。竜之助は、瞬きもせずにその髑髏を見つめていると、
「あなた、その人を御存じ?」
と女の子がいいました。
「知らない」
「では、この人は?……」
 女の子は前に進んで、次の燈籠へ火を入れると、おなじような髑髏の形となりました。竜之助はそれに眼をうつし、
「やはり、知らない人だ」
「そうですか、それでは、この人は?……」
といって、女の子はまた三歩進んで、次の燈籠に火を入れると、同じくそれも髑髏の形。
「知らない」
「御存じのはずなのに……」
 女の子は小首を傾《かし》げて前へと進みながら、線香の火を大事にして、
「これなら、キットおわかりでしょう」
 その線香を燈籠の下に入れる。と、そこに現われたのは髑髏ではありません、まさしく女の生首《なまくび》でありました。
「…………」
 竜之助は、近く摺寄《すりよ》って、その生首をつくづくとながめます。
「ちぇッ」
と彼の額に白い光がひらめきました。
 金剛杖を取り直して、それを打ち倒して、首を地上へ打ち落すと、女の子は、
「そんなことをしたって駄目ですよ、あなたはこの燈火《あかり》がなければ、一足も歩けないくせに――」
と言って、その蛍火ほどの線香を、竜之助の前にかざして見せましたが、やがて、竜之助には頓着なしに、先へ進んで、つぎからつぎへとその燈籠をつけて歩きます。燈籠という燈籠は、ことごとく髑髏にあらざれば人の首です。
 竜之助は、うんざり[#「うんざり」に傍点]しました。何里あるか知れないこの道を歩くには、いちいちあの首を見て歩かなければならないのか。
 ふりかえって見ると、いつのまにか、後ろの方もおなじ髑髏の燈籠。
 はて、ここはいったいどこだろう。昨日塩尻峠を越えたばっかりなのに――桔梗《ききょう》ヶ原《はら》か、五千石通りか……
 それを考えた時は、うつつ心の出でた時で、まもなく鶏の声が耳に入るのを覚えました。塩尻の宿《やど》の、夜明けの肌寒いのを覚えると、傍《かたえ》にすやすやとおだやかなお雪の寝息。ああ、夢であったかと覚《さと》るのは常の人のことで、この男には、夢と現実との区別がありません。否、現実はことごとく暗黒の虚無で、夢みている間だけに、物の真実が現われてくるようです。



底本:「大菩薩峠7」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
   2003(平成15)年4月20日第2刷発行
   「大菩薩峠8」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 五」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※疑問点の確認にあたっては、「中里介山全集第五巻」筑摩書房、1970(昭和45)年12月22日発行を参照しました。
入力:大野晋、門田裕志、tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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