男美女の御夫婦仲……それに天樹院様のお化粧料が十万石……」
「本多はそれがために三十一で夭死《わかじに》をしてしまった」
「え?」
 婆さんがギョッとしたようです。天樹院の墓の下から、小さな蛇が一匹現われました。
「つまり天樹院は豊臣秀頼を殺し、坂崎出羽を殺し、本多忠刻を殺し……」
 その時です、駒井甚三郎の胸をつんざいたのは――現在、自分をうらんで去った自分の妻が、どこかにおいて、この天樹院とおなじような乱行の生涯を送っているのではないか。
 果報者の本多忠刻を、三十一歳で夭死《わかじに》をさせた後の爛熟《らんじゅく》しきった若い未亡人の乱行。
 それは今の世までもうたわれて、淫蕩《いんとう》の標本とされている。天樹院とても、淫蕩そのもののために特にこの世につかわされた女でもあるまいし、徳川の宗族だからといって、天樹院に限って、その乱行を是認するという制度もあるまいが、あの女性としては、淫蕩と乱行とに半生を使いつぶすことのほかには、生きる道を知らなかったればこそ……また徳川の宗族も、自ら省みれば、あの女の乱行を抑えるの権威がない。
 まだ子供心の失《う》せぬ時分、徳川家から豊臣家へやられたのは、政略のための人質に過ぎないし、後に坂崎出羽に与えられようとしたのは、働きに対する懸賞品の代用として扱わるるに過ぎなかった。女性を、娘を、物品として取扱うことをしか知らぬ父祖というものに対して、この女が呪いの心を発したというのはありそうなことである。
 そして、この女は我儘《わがまま》の目的物として、美男の本多忠刻をえらんだ。
 忠刻が、この美人に思われて夭死《わかじに》をしたのは、お輿入《こしい》れ間もないことで、その死因は単純な果報負けだともいうし、坂崎余党のうらみの毒によるものだともいうし……また、昼夜に弄《もてあそ》ばるる天樹院の、限りなき情慾の犠牲に上げられたものだともいう。
 天樹院の乱行には、まさしく復讐の念をふくんでいなかったとは誰もいわない。
 女の復讐は、いつも魂をいだいて泥土の中に飛びくだる――そうした時に、征夷大将軍の力もそれを救うことができない。
 駒井甚三郎は、昨晩一学からいわれ、その時はほとんど念頭に置かなかった言葉の節々が、今や重く胸にわき上ってくるのを覚えました。
 一学はわが妻の挙動を叛逆だと叫んだ。叛逆とは何を意味している。今までそういうことに耳をふさぎたがっていた駒井。わかれて後の妻が若い小姓の誰かれを愛したとか、堂上方のあるさむらい[#「さむらい」に傍点]を始終ひきつけていたとか、京都へいった後、ずんと年上な、評判の色悪《いろあく》の公卿《くげ》さんに籠絡《ろうらく》されてしまって、今はそのお妾《めかけ》さん同様に暮らしているとか、聞きたがらない当人の耳へ、わざとするように苦々しいものがひっかかる。
 それは、ドコまで信じ、ドコまで疑うの拠《よ》りどころがあるわけではないが、ただ疑われないのは、彼女の心が決して上へはのぼっていず、無限の下へ下へとおち行く光景だけは、見まいとしても眼の前へ現われてくるのです。
 駒井甚三郎は、そのことを考えて、心の底から戦《おのの》くのを禁ずることができません。
「こちらが伝通院様でございます」
 婆さんが言葉をかけたので、われに返って見ると、
[#ここから1字下げ]
「伝通院殿
蓉誉智光
大禅尼
 慶長七年一月二十九日」
[#ここで字下げ終わり]
 伝通院殿は無事であります。その展墓《てんぼ》を最後として、駒井は老婆と共に墓地の中を出ることにしました。
 再び門前の店へ戻って、
「まあお休みあそばしませ、粗茶一つ、召上っていらせられませ」
 駒井は老婆の案内に応じて、土間の長い腰掛に腰を卸すと、あとから続いた老婆は、風を厭《いと》うて障子を締めきり、やがて、渋茶の一椀を駒井の前に捧げましたから、駒井はそれに咽喉《のど》をうるおします。
 朝日が、前の木立の間から洩れて、いま締めきった障子に光を投げている。内も外も静かで、本堂から洩れるおつとめ[#「おつとめ」に傍点]の音がよく聞える。
 その時分、締めきった障子の外で、
「おばさん」
「はいはい」
「花を持って来たよ、これをおばさんの店で売るといいや、院代《いんだい》さんにことわってうろ抜いて来たんだよ」
 内では見えないが、障子の外に立ってこういいながら、胸一ぱい[#「ぱい」に傍点]に秋草を抱え込んでいるのは、宇治山田の米友であります。
「友さん、どうも済みませんね」
 婆さんは障子を少し開いて前から見ると、それは米友が歩いて来たのだか、草花が歩いて来たのだかわかりません。
「どう致しまして」
 胸一ぱい[#「ぱい」に傍点]に草花を抱いた米友は、婆さんのあけたところから土間の中へ入り込み、
「花桶の中へ入れといて上げような」
「ああ、どうぞ」
 そこで米友は胸一ぱい[#「ぱい」に傍点]抱えて来た秋草を、明《あ》いた花桶の中へ入れようとして、
「おや、この桶には水がねえや」
「水がありませんかね。それじゃそのままにしておいて下さい、あとから汲んで来て入れますから」
「おいらが汲んで来てやろう」
といって米友は、胸一ぱい[#「ぱい」に傍点]に抱えた草花を桶の中へさし込みながら、傍《かたえ》の手桶を横目でながめました。
 その手桶を提げると、米友は以前入って来たところから、身軽に外へ飛び出してしまいました。動物園へ動物を寄附する時には食糧附の義務があるように、米友は草花を持って来た好意に添うるに、水汲みの労力を以てすることを、さのみ苦には致しません。これはお安いことです。
 米友はこうして水を汲みに出かけました。そのあとで、駒井甚三郎は、
「婆さん、奉書があれば結構、なければ西の内でも、それもなければ半紙でもよろしい、紙を一枚下さい」
「何になさるんでございますか」
「え、志納金をお寺へ納めて行きたいと思う」
「左様でございますか」
 婆さんは、立って、奉書の紙のいったん使用して皺《しわ》をのばしておいたのを持って出て、
「これでよろしうございますか」
「それで結構」
 駒井甚三郎は一方の脇の床几《しょうぎ》に腰をかけて、花立を置いた前の机の上でなにがしかの金を包み終り、
「婆さん、筆をお貸し」
「はいはい」
 老婆は、蒔絵《まきえ》のある硯箱《すずりばこ》の蓋《ふた》をとって、水をさし、駒井の前へ置くと、駒井は墨をすりながら、
「婆さん、お前は、なかなかよい墨筆を使いますね」
「いいえ、お恥かしうございますよ、あなた様」
「嗜《たしな》みがよい、お前は和歌《うた》をやりますか」
「いいえ、どう致しまして」
 駒井が、それに感心したのは、独《ひと》り住《ず》みの門前婆さんのことだから、筆墨を所望《しょもう》されたら、狼狽してほこり[#「ほこり」に傍点]の溜ったのを吹き吹き、申しわけをしながら、やっと取り出さないまでも、こんなに念の入ったのを出されようとは案外で、どうしても、和歌《うた》の一つも書きつけているものでなければ、こうは嗜みが出来ないはずと思ったからです。
「いや、お前は和歌《うた》をやりそうじゃ、さいぜん[#「さいぜん」に傍点]、あの墓の前でふとお前の姿を見た時に、絵に見る卒塔婆小町《そとばこまち》を思い出したよ」
「ホホホ、よく皆さんが、そんなことをおっしゃって下さいますが、西行《さいぎょう》に姿ばかりは似たれども、と申すようなものでございます」
「いいえ、お前の前生は小町かも知れない、さぞ男を悩ましたことであろうな」
といって駒井は、自分ながら口が辷《すべ》り過ぎたと思いました。
「御冗談をおっしゃいます……」
 この時に、水を汲んだ宇治山田の米友が帰って来ましたので、卒塔婆小町は、
「友さん、御苦労さま」
「おいらは、水を汲むのは何ともねえが、提《さ》げて来るのが骨だよ」
といってその手桶を土間へかつぎ込んだのと、駒井甚三郎が紙包の上へ、駒井家回向料の文字を認《したた》め終ったのと同時でした。
「あ!」
 米友が舌を捲いて、手桶を抛《ほう》り出して、駒井の面《おもて》をキッと見つめたのもその時です。
「やあ、手前《てめえ》は駒井能登守だな」
 そのクルクルと廻った円い眼には、おどろきのほかに憤《いきどお》りが燃えています。
 駒井甚三郎は筆を下に置いて、
「おお、お前は友造ではないか」
 はじめて、米友の面《おもて》をまともに見ました。
「うーむ」
 米友は、駒井の面《かお》を見ていると、むらむらとして、衷心《ちゅうしん》の憤りと、憎しみとが、湧き起るのを禁《と》めることができないと見えて、その拳《こぶし》がワナワナと動いて、頓《とみ》には口も利《き》けないでいるのを、駒井はそれと知る由もないから、尋常に、
「お前はこの寺にいたのか。ナゼ甲府を出る時に、だまって出ました」
「だまって出ちゃ悪かったかい」
 駒井が尋常に出るのを、米友は、喧嘩腰ですから、この時、駒井が怪しみをなしました。しかし、駒井自身においては、よくこの男の性格を知っているつもりだから、至極おだやかに、
「帰るなら帰るように、わし[#「わし」に傍点]にも一言いってくれるとよかった」
 しかしながら宇治山田の米友は、この時、堪忍袋《かんにんぶくろ》が切れたように飛び上って、
「駒井能登守、能登守……」
 拳を握って、歯をギリギリと噛み鳴らしましたから、当の駒井よりは卒塔婆小町の婆さんがおどろきました。
「友さん、どうしたの?」
「どうしたんでもねえんだ、腹が立ってたまらねえんだ、こいつの面《つら》を見るとおいらは腹が立って、口惜《くや》しくって、物が言えねえ」
 米友の唇もまた、拳のふるえるようにふるえています。
「何です、わからないじゃありませんか、無暗に人様をつかまえて。第一、御身分のあるお方に失礼です」
 婆さんが、駒井を御身分のある方と推定したのは、もっと以前よりのことですが、口に出たのはこれが初めてで、つまりその御身分なるものは何だか知れないが、おとももつれないでこうして参詣に来たというものの、その詣《もう》でて行く墓は皆、由緒《ゆいしょ》の正しいものであり、また当人の品格が、いかにも奥床しいところのあるのに、いきなり[#「いきなり」に傍点]ぶッつかった米友の言語挙動が、いかにも粗暴を極めているから、それで見兼ねて、つい、心にあった御身分のあるお方というのが口に出たのです。
 けれども、こういう境界線は、宇治山田の米友にとっては用をなしません。
「ああ、こいつがいなけりゃ、お君は死ななくってもよかったんだ、こいつが、こいつがお君を殺しちまったのだ」
 米友は、またも躍《おど》り上って、歯をギリギリと噛み鳴らしました。
「友さん、ほんとに、お前どうしたんですよ、お前にも似合わない」
 卒塔婆小町の婆さんは、米友が発狂したのではないかとさえ疑いました。しかし米友の昂奮はいよいよ上《のぼ》ることを知って、静まるということはありません。
 駒井甚三郎は、こういうふうに頭から罵《ののし》られても、あえてそれに激するものでもなく、またこのグロテスクの凶暴な表情に恐れをなして、逃げ去ろうでもありません。
 その罵るだけを聞き、その受けるだけの乱暴を受けようとの態度ですから、いきおい、卒塔婆小町婆さんが、身を以て二人の間に立入って、万一に備えなければならない勢いとなりました。
「お、お、お君は……」
 米友は、激しくども[#「ども」に傍点]って、
「お君は、お君だけの女なんだ、そ、そ、それを……殿様の威光でおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]にした奴は誰だ」
「友造――」
 駒井が何か言おうとすると、米友はいっそう激してしまい、
「その分にしておけば一生いきていられる女を、殿様の威光でさんざんおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]にして、飽きた時分に抛《ほう》り出した奴は誰だい。ばかにしてやがら。あの女は死んでしまったんだ。死んだ者はこの世にいねえんだぜ。もう一ぺんこの世へ出せるものなら出してみろ、その上で文句があるならいってみろ、駒
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