お長屋のうちで、ただ一軒だけ燈火《あかり》をつけて夜業《よなべ》をしていたのが、思いがけなく外から呼ばれて驚きました。
この屋敷の広さは、誰が見ても三四千坪以上、周囲にはお長屋があって、表は長屋門、左右には黒板塀、書院、表座敷、居間、用部屋、使者の間、表玄関、内玄関、詰所詰所、庭があり、林があり、築山があり、茶畑まであって、三千石以上の旗本の屋敷としては総てが備わっているが、主人がいない。
主人のいない屋敷は荒れるにきまっている。たとい留守を預かるほどの者が心がけがよくって、見苦しからぬよう手入れを怠《おこた》らぬにしたところで、主人を持たぬ家は、その鬱然《うつぜん》たる生気を失うにきまっている。
駒井能登守が、すでにこの屋敷を離れてかなりの日数になる。まだ見苦しいほどには荒れていないが、なんとなく痛々しい空気が漂うているのはぜひがない。
このお長屋にひとりで留守をしているのは、以前、甲府までも主人のおともをして行ったことのある近習役の阿部一学であります。ほかの家来は、それ以来、ちりぢりになって、多くは別に主取りをしているのに、一学だけは、決着のお沙汰のあるまでこの屋敷に踏みとどまって、留守居を兼ねて、夜な夜な内職をしているところへ、今いう通り、外からわが名を呼ぶものがありました。
ここで、一学の内職というのは、世の常の浪人のする唐傘張《からかさは》りや、竹刀《しない》けずり[#「けずり」に傍点]とはちがって、オランダの辞書と、イギリスの辞書とをてらしあわせて、しきりに筆写を試みているので、この内職には相当の学力と労力とを要するが、うつし終ればその報酬は、他の内職よりはずっと割がいいのみならず、一冊うつせば自分もまた一冊だけの学力がつく。一学が、あえて仕官をあせらずに、こうして落着いているのは、この内職という強みがあればこそで、この内職に堪えられる学力は、旧主の駒井能登守から恵まれたもの多きにおることを知ればこそ、少なくとも自分だけは、最後までこの屋敷の運命を見届けようとの覚悟も起るわけです。
一学は外から呼ばれた声に大きな驚異を持ちながら、筆を、うつしかけたイギリス語の雁皮《がんぴ》の帳面の間へはさんで、あわただしく立って窓の障子を押開き、
「どなたでござる」
「駒井だ」
「ええ、殿様でございましたか?」
一学は倉皇《そうこう》として、
「ただいま、表御門をおあけ申しますから……」
絶えて久しい主人が、こうして夜陰《やいん》にブラリと尋ねて来たものですから、一学も最初は妖怪変化《ようかいへんげ》ではないかとさえ驚きあやしみ、且つ喜びました。
飛ぶが如く表門へ駈け出して、門を開き、主人を案内はしたが、それを堂々と表玄関へとおすことができず、自分が今まで内職をしていた長屋の中へ、ひとまずお連れ申さねばならぬ運命のほどを悲しみました。
駒井甚三郎は、さのみ悲しむ色もなく打通って、
「勉強しているな」
「はい、おかげをもちまして」
一学は何ともつかず返事をして、取って置きの敷革《しきがわ》を出して主人にすすめる。
「殿様、これは夢ではございますまいかと、私は存じまするが、夢ならば、さめないうちにおたずね申し上げなければなりませぬ。ただいままで殿様には、どちらにおいであそばしました、そうして何故に、ただいままでお便りを下さいませんでしたか」
一学は両手をついて、主人にたずねました。
「便りをしないことは悪かったが、便りをしないことが自他のためであったのだ。それはそうと変ることはなかったか……と尋ぬるも異《い》なものだが……」
「奥方は京都へお越しになりましたことを、御存じでいらせられますか」
「うむ……あれの病気はどうじゃ」
「御病気は大抵、お癒《なお》りになったそうでございます」
「そうか……」
「殿様」
と一学は膝を押しすすめて、
「私は人情の表裏反覆というものの甚だしいことを、今更のように学びました、何かにつけて驚き入ることばかりでございます」
一学は眼に涙をたたえて昂奮すると、駒井はしんみりと、
「いいや、みんなわしが悪いのじゃ、お恥かしい次第だ、この心が出来ていないばっかりに、わが身を誤り、家を亡ぼし、親族には屈辱を与え、お前たちにも苦労をさせてしまった、つくづくとこの身の愚かさが身にこたえる、ゆるしてくれ、ゆるしてくれ」
「恐れ入りまする、そういうつもりで私はただいまの一言《ひとこと》を申し上げたのではござりませぬ。一時は私も、殿様のお心がわかりませんでしたけれど、今となりましては、その考えが変りました。女が悪いのでございます、罪は女にあるのでございます、殿様がお悪いのではございませぬ」
「何をいっているのだ、そういう話は、もうよそうではないか……実は、こうやって急に思い立って尋ねて来たのは、少々、捜《さが》してみたいものがあってのことじゃ、大儀だが、奥の書物庫へ案内してもらいたい」
「畏《かしこ》まりました、何ぞ、お書物でもお取出しになりますか」
「書物をさがしに来たのだ、急に読みたいことがあって……」
「では、早速御案内を仕《つかまつ》りましょう」
一学は、久しぶりで主人にあって、まだまだいいたいことが山ほどある気色《けしき》なのを、主人がむしろ、それを避けたがる様子と、ともかくも書物庫へ、急の用件があるらしいのとで、ぜひなく、提灯《ちょうちん》を用意し、預かりの鍵をたずさえて、この座敷を出かけました。
目的の書物庫は、駒井甚三郎が特に念を入れて建てさせたもので、駒井は、洋行する知己友人のあるたびに、かの地の書物の買入れを頼み、みやげとして寄贈された書物と共に、この庫に蓄えておきました。
いろいろの心持で、頭を混乱させながら案内に立った一学は、わが主人は、これまでどこに、どういう生活をしていたのだかわからないが、それでも、こうして駈けつけると、早々参考書の庫へおとずれることによって、主人の今の境遇がたとい逆境とはいいながら、逆転しているものでないことを想像して、心ひそかによろこんでいます。
幸いにして一学も、また好学の書生でありましたから、日頃の心がけも、おのずからこの書物庫の書棚の上に現われて、こうして不時の主人の検閲を受けるような結果になっても、あえて狼狽せずに案内することができたのみならず、いよいよ内部へ入って、整理の手際を見た時に、主人をして感謝せしむるほどの好成績を示し得たことを、自分ながらよろこばずにはいられません。
「感心に手入れの怠りがないのみならず、分類の方法が宜《よろ》しきを得ている」
といいながら、駒井は一学の手から提灯を受取って、汗牛充棟《かんぎゅうじゅうとう》の書物をいちいち見てあるきました。満足の色を面《おもて》にたたえて――
もし、管理者が一学でなかったら、この書物は、どうなっているか知れない。紛失はしていないまでも、散逸《さんいつ》はしていたろう。そうでなければ虫と鼠との餌食に供せられていたに相違ない。そして、駒井は提灯をふりてらして、自身に書棚の間を縫って歩きながら、めぼしい書物をいちいち抜き取りました。抜き取ったのを一学に渡すと、一学はいちいちその題目を読んでは取りそろえながら、少なからず奇異の念に打たれたことであります。
申すまでもなく、わが主人の専門は、西洋の兵術と武器とであります。その道においてはならぶもののないほどの新知識であって、同時に、そのころの西洋科学の粋を味わうことにおいては、人後に落ちなかったものです。
ですから、今も隠れて、専らその方面の研究に没頭しているものに相違なく、従って参考書に不足を感じたればこそ、こうしてわざわざ駈けつけたものに相違ない。
ところが、いま主人の抜き出している書物という書物が、みな一学の意表に出づるものばかりでありました。
「Logos《ロゴス》――これは理学の本でございますか」
「左様、道理とか言葉とかいうのだろう」
「Mani《マニ》――これは何を書いたものでございますか」
「マニ……土地の名か、或いは人の名ではないか」
「Hom−ousia――ホモウシアと読んでよろしうございますか」
「そう読むよりほかはあるまい、何の意味かわし[#「わし」に傍点]にもわからぬ」
「次は Monologion《モノロジオン》――これは、オランダ語でございますか、イギリス語でございますか」
「その原書はイタリーのものだそうだ、太宰春台《だざいしゅんだい》の独語といったようなもの、つまり感想録の一種だろうと思う」
「ははあ、これはイギリス語でございますな、イミタシアン・オブ・クリストと読みますか……」
「うむ」
「内容は何でございますか」
「何だかわからん」
「これは、ピリグリム・プログレスと読みますか、これには挿絵《さしえ》がたくさんございます」
「それは有名な小説だ」
「小説と申しますると、草双紙《くさぞうし》の類《たぐい》でございますか」
「そういうわけでもない」
「Socitas Jesu――綴りに従ってソサイタス・ジェスと読みます、ソサイタスは組合とでも申しましょうか、ジェスは……」
「人の名だ」
「ああ、これはヒストリー・オブ・プロスチチューション――」
駒井甚三郎の抜き取って渡す書物は、どれもこれも一学には意外千万であった。意味のわからない標題や、草双紙や、遊女売婦の歴史。兵書、兵学に関するものとては手にだも触れないで、またその次に漁《あさ》り出したのが、形は洋装になっているが、標題は漢字で、「約翰福音書《ヨハネふくいんしょ》」――
「あ、それは切支丹《きりしたん》の書物でございます」
一学がいうまでもない、これは千八百三十九年(天保十年)新嘉坡《シンガポール》で出版された日本語訳の最初の聖書。
二人は書物庫から両手に一ぱい[#「ぱい」に傍点]の書物を抱え出して、再び以前の長屋へ戻り、
「一学、今晩はもうおそいから、ここへ泊めてもらおう」
駒井甚三郎は、ついにその夜は一学と枕を並べて寝ることになりました。
「殿様、私はそれを申し上げてよいか悪いかわかりませんが――日頃胸にあることでございますから、お気にさわるまでも、今晩この機会に申し上げてしまいたいと存じます」
一学があらたまっていいますから、駒井が、
「遠慮なくいってみたまえ」
「ほかでもございませんが、どうしてもわからないのは、奥方のお心持でございます」
「うむ、誰の心でも、そうはよくわかるものでない」
「と申しましても、あれほどあなた様を慕っておいでになりました奥方が、あまりと申せば手のうら[#「うら」に傍点]をかえすように、お情けないお仕打ちでございます」
「それも事情に制せられて已《や》むを得ぬことだろう、この浮世の階級とか情実とかいう、何百年、何千年来の圧迫を女の手で破れというのは、いう方が無理だろう」
「破れとは申しませぬ、むしろ従えと申し上げたいのでございます」
「よき破壊と、よき忍従とは、共に同じほどの力を要するものだ、難きを人に責めないがよい」
「難きを責むるのではございませぬ、常道を責むるのでございます。奥方のお振舞は、あなた様にとっては、まさしく叛逆なのでございます」
「叛逆?」
「と申し上げました無作法をお許し下さいませ。叛逆でなければ、復讐《ふくしゅう》でございます、人の妻として、世の女として、取るべき道ではござりませぬ」
「一学、そちは、常ならず昂奮しているが、わし[#「わし」に傍点]は何も知らぬ、知ろうとも思わぬが、叛逆という言葉はおだやかであるまい、もし、さる事実がありとすれば、叛逆はかれにあらずして、われにあるのだ、その当然のむくいとして、わしは復讐を甘受しなければならぬ」
「エ、何と仰せられます、殿様が、奥方にそむいたと仰せられますか。それはあまりに御寛大なお言葉でございます。一切を承知致しております私にとりましては、痛ましいほどの御寛大のお言葉でございます。甲州へおいでになる道中におきまして、毎日、日課として、こまごまとお文をお書きあそばしたあの御情合……」
一学は声をつまらせてし
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