の家は町はずれにあるはず。そこへ帰るつもりで、まるっきりちがった方角へ走っているらしい。そのくらいだから髪のくずれていることも知らない。着物のみだれていることも気がつかない。
「口惜しいッ」
と何かわからずに口惜しがって、街道を駈け出したが、やがてぱったりと物に突き当って打倒れ、その時、起き上るほどの気力がなかったと見えて、そこへころがったままでいる。
けれども気絶したわけでもなければ、怪我をしたのでもない。まだ、充分に酔いがまわっているのに、走り出して疲れたものですから、泥のようになって、そこにかすかないびき[#「いびき」に傍点]をさえ立ててねむってしまったのです。
女が倒れているのは――静かな神社の境内《けいだい》。突き当ったのは、注連《しめ》の張った杉の大木にめぐらした木柵。ここは諏訪の秋宮《あきのみや》、この杉こそは名木|根入杉《ねいりすぎ》。
この時が、ちょうど、例のお万殿の出遊《しゅつゆう》、呪《のろ》いを怖れる者の出てあるいてはならないという九ツ半でありました。
十三
しかし、その晩は、宿の方ではそれよりほかに変ったことはなく、お雪ちゃんも夜中に目がさめて、竜之助の刀を覘《ねら》うような物騒なことをしないでも済み、竜之助も血に渇《かわ》いて、夜中に忍び出でた形跡もなく、久助は無論前後も知らず、隣室の、かのおだやかならぬ四人連れのものどもも、無事に眠りについて夜を明かし、まだ暗いうちに、竜之助は昨晩頼んでおいた馬で、お雪は駕籠《かご》で、久助は好んで徒歩《かちある》きでこの宿を立つと、それと前後して、やはり隣室の四人連れ、丸山勇仙と、仏頂寺弥助と中ごろから加わった二人、その名をいえば、高部弥三次、三谷一馬の都合四人も、この宿を出かけました。
下諏訪を立つとまもなく塩尻峠。一足先に出た竜之助の一行と、やや後《おく》れて仏頂寺ら四人のものとは、この道中において、やはり後になり先になりましたが、徒立《かちだ》ちとはいえ一方は屈強のつわもの[#「つわもの」に傍点]、一方は病人と女づれのことですから、徒《かち》の四人が先になるのはぜひもないことです。
これより先、彼等四人のものには、竜之助の一行が問題となって、
「あれは昨晩、われわれとおなじ旅籠《はたご》を取ったものだが、なにものだろう、夫婦でなし、兄妹でもなし……」
「左様、夫婦にしては年が違う、兄妹にしては他人行儀なところがある、付人《つきびと》も仲間《ちゅうげん》小者《こもの》ではない、どこの藩中という見当も、ちょっ[#「ちょっ」に傍点]とつきかねる、そうかといって、ただの浪人にしては悠暢《ゆうちょう》な旅だ」
横目でジロリジロリと竜之助の一行を眺めましたが、竜之助の笠はかなり深いのに、垂《たれ》のない駕籠で、お雪の姿はありあり[#「ありあり」に傍点]と見えましたから、離れると、
「ちょっ[#「ちょっ」に傍点]と可愛らしい娘《こ》だ」
「人好きのする娘だ」
といってカラカラと笑い、
「昨晩はかわいそうに」
「そうそう、丸くなって逃げ出したが、あれっきり姿を見せなかった」
これは酔いつぶされて逃げ出した女のこと。
やがて、峠の上、立場《たてば》の茶屋へ来るとそこで一休み。
仏頂寺弥助は鍵屋の辻の荒木又右衛門といったような形で縁台に腰をかけ、諏訪湖の煮肴《にざかな》を前に置いて、茶の代りに一酌《いっしゃく》を試みている。
この辺の連中、腕はたしかに出来るには出来るが、ややもすれば無頼漢になってしまう。これより先、江戸三剣士(千葉、桃井、斎藤)の一人斎藤篤信斎弥九郎が、その門弟のうちから十余人の腕利《うできき》を選抜して「勇士組」と名づけ、これを長州へ送ってやったことがある。仏頂寺以下もそのうちの一人で、最初のうちはよかったが、後にたち[#「たち」に傍点]が悪くなって、京阪の間で悪事を働いたものだから、師の篤信斎の怒りを買い、実はもう、とうの昔に殺されていなければならないはずの男でありました。それがまだこの辺を宙にさまようて出没しているのは奇怪千万《きっかいせんばん》のことで、多分、再び、京阪の間《かん》へ舞いのぼり、勤王や、新撰組の中へ潜《もぐ》って何か仕事をしようとするつもりと見える。しかしながら、長州あたりでも、新撰組でも、もうこれらの連中は亡者扱いにしているから、真実に相手にする者はなかろうと思われる。といって、腕にかけては、その当時といえども、この辺の連中がそうザラにあるべきわけのものでもありません。
自然用うるところのない亡者どもは、そのあり余る手腕は悪い方へ使えばといって、善い方へ使う気づかいはない。
厄介千万なのはこの類《たぐい》の亡者。
荒木又右衛門気取りで酒を飲んでいるが、本物の荒木が来てさえも、そうは容易《たやす》く後ろを見せない者共でありながら、楯に取るのは義理名分でもなく、勇侠義烈でもなく、つまるところは酒と女。今もここに網を張って、病人と足弱の一行を待ち構えているようなものですが、相手次第で、どう変化するかわかったものではありません。
その日の天気模様は朝から曇っていたものですから、肝腎の峠の上から諏訪湖をへだてた富士の姿が見えず、あたら絶景の半ばを損じたもののようで、ことに寒気が思いのほか強く、風こそないけれども、海抜一千メートルのここは、今にも雪を催してくるかとばかりです。
そこへまもなく、峠路を上って来た竜之助の一行。道中の不文律に従って、ともかくもこの立場《たてば》へ一休みはするだろうと期待していると、案外にもそのまま挨拶もなく(挨拶すべき義務もなく)この前を素通りして先をいそがせましたから、四人のものが拍子抜けの体《てい》です。仏頂寺弥助の如きは、盃を宙にして、口をあいて、掌《て》の中の珠《たま》を取られたような形でいましたが、さりとて、上って来たその人は河合又五郎でもなければ、阿部四郎五郎でもないから、立ち塞がるわけにもゆかず、呼びとめる縁故もありません。
やむなく、相当の時間と茶代とを置いて、この立場を出立しました。四人はいい合わさねど忌々《いまいま》しい面《かお》をしている。
峠の上の立場《たてば》――五条源治を素通りした竜之助の一行は、やがて、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の一軒家へかかろうとする時分に、後ろから、
「おおい」
と呼ぶ声。
その声を聞くと駕籠《かご》の中のお雪が、まず恐怖に打たれました。
「おおい」
二度《ふたたび》呼ぶ声。久助は聞かないふり[#「ふり」に傍点]をしていると、堪りかねたお雪が、
「久助さん、おおい、おおいって、呼んでいるのは、あのさむらい[#「さむらい」に傍点]たちじゃありませんか」
「そうかも知れねえ」
「なんだか、気味の悪い人たちですね、麓《ふもと》でも、わたしの駕籠をジロリジロリと見ていました、いそぎましょう」
「急ぎましょう」
急ぐといって、ここは下りに向った塩尻峠ではあるが、見通しの利《き》く野原の一筋路。
もし隠れるとすれば、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の真中に、屋根に拳石《けんせき》を置いて、中で草鞋《わらじ》を売る一軒家があるばかりです。
「おおい」
と三たび呼ぶ声。この声に竜之助が聞き耳を立てました。
「うるさい奴等だ」
「何でしょう、あのおさむらい[#「さむらい」に傍点]たちは?」
久助が心配する。そこで期せずして三人がひっかかりました。
「先生、かまわないで行きましょう、そうでなければ、あの一軒家へ隠れて、先へやってしまいましょう」
最も多く心配するのはお雪です。
「おおい、お待ちなさい」
ようやく近寄って来た四人の者。
「ちぇッ」
竜之助は小癪《こしゃく》にさわる心持で、馬から下りてしまいました。
「先生、芸もないから相手になるのはおよしなさいまし、なんだか、たいそう気味の悪いさむらい[#「さむらい」に傍点]たちですから」
久助も、お雪も、馬から下りた竜之助を見て、かえってそれに驚かされました。
「小うるさい奴等だ……久助どの、お前はお雪ちゃんを連れて、その一軒家とやらへ隠れておいで……馬も、駕籠も、近くへは寄らぬこと」
馬から飛び下りて、右の手で野袴の裾をハタいて、それから笠の紐を取った竜之助の面《おもて》は例によって蒼白《あおじろ》い。いつも沈みきっている人も、時あっては小癪にさわる憤りを漂わせることがある。
「え、滅相《めっそう》な」
老巧の久助も面《かお》の色を変えました。この人は事をわけて相手をなだめるために下り立ったのではない、まさしく怒気をふくんで待ち受けているのです。病人であり、盲者《めくら》であるこの人が……。油を以て火を迎えるようなもの。
物騒な相手よりも、相手を知らぬものが怖い。久助は何かいおうとして、慄《ふる》え上ってしまいました。
しかし、心得たのは、お雪を乗せた駕籠屋で、客の安全よりは自分たちの安全を頭に置いて、竜之助にいわれた通り、お雪を乗せたままの駕籠を中に、程遠からぬいのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の一軒家めがけて飛ばせてしまいました。馬も、馬方もそれについで――
久助は、無謀千万な同行者の態度に、いうべき言葉を失って慄え上っている間に、
「お呼び留め申して失礼」
おだやかならぬ四人のものは、早くもそこへ追いついたから、久助は、本能的にお雪の駕籠を追いかけて走りました。
あとにひとり残った竜之助は、うしろを顧みずしてあるきながら、
「おのおの方は、さいぜんからわれわれをお呼び留めなさるようだが、何の御用でござる」
「ちと、承りたい筋があって」
竜之助と押並ぶようにして、まずしゃしゃ[#「しゃしゃ」に傍点]り出たのが高部弥三次。
「それはまた何事」
竜之助が答えると、弥三次はせき[#「せき」に傍点]込んで、
「貴殿は昨夜、下諏訪の孫次郎へ一泊致したでござろうな」
「仰せの通り」
「そうして、貴殿は、あの宿で女をかどわかして[#「かどわかして」に傍点]これへ伴い参ったはず」
「何をおっしゃる」
「我々に向って尋常にその女をお渡しなさい」
弥三次が詰め寄ると、後ろで仏頂寺をはじめ他の三人がニタリと笑っている。
そこで、竜之助は黙っていました。このやつらは、いいがかりを考えて来たな、自分たちで企《たくら》んだことを、こちらへ向けて先手にやって来たな。よしその分ならばと思ったのでしょう。
「いかにも女を一人つれて参ったに違いないが――」
「穏かにその女をお渡しなさい」
「渡すべきいわれのない者には渡せない、貴殿らにその女を受取るべき縁故があるなら聞きたい」
「我々はその――女にとっては親戚のものでござる、つまり、親戚のものから頼まれて、あとを追いかけまいったものでござる」
「しからば、その受取りたいという女の身元は?」
「宿の女じゃ、貴殿がかどわか[#「かどわか」に傍点]して、駕籠《かご》に乗せてまいったあの女」
「して、その女の名は何といって、年は幾つぐらい」
「くどい――」
高部弥三次が一喝《いっかつ》しました。少々離れてあとからついて来た仏頂寺はじめ三人のものは、高部の一喝をおかしいものとして、あぶなく吹き出すところでしたが、やっと我慢していると、大まじめな高部は、
「盗人《ぬすっと》猛々《たけだけ》しいとは貴殿のことだ、人の大事の娘をかどわか[#「かどわか」に傍点]しておきながら、年はどうの、名は何のと……人を食った挨拶」
と言って竜之助の肩へ手をかけてゆすぶると、竜之助は横の方を向いて、
「紙入を一つ拾うたからとて、手渡しするまでには相当に念を押さにゃならぬ、まして人間一人……」
そのまま歩いて行くと、高部も肩を捕《つか》まえながら邪慳《じゃけん》に歩いて、
「やい、この刀が目に入らぬか、我々のかけ合いは、ちと骨っぽいことを御存じないか。お手前はそのかどわか[#「かどわか」に傍点]して来た女を、あれなる一軒家へ隠して置いて、踏みとどまって我々に応対を致そうとするからには、相当に覚えがあるに相違ない。刀にかけて返答を
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