、信長は自分の甥のことでもあるし、自分も心ならず敵に従っているんだから、許してもらおうと思って、その茶入を土産《みやげ》に持って来たんでしょう。それを、むざむざと一言《ひとこと》も聞かずに斬ってしまうなんて、わたし、信長という人はにくらしいわ。まして自分の本当の伯母さんなんでしょう。だから、信長という人は、あとで自分の家来の明智光秀に殺されちまったんでしょう。自業自得というものですわ、ねえ、先生」
お雪は今度は竜之助の方へ加勢を頼みに来て、
「ねえ、先生、あなたは、どう思っていらっしゃるの、やはり、お万殿をかわいそうだと思っていらっしゃるでしょう。信長という人を、にくい人だとお思いにならない?」
「けれども、この時の習いで、敵に肌をゆるした女をたすけてはおけなかろう」
竜之助が答えますと、お雪は非常に失望しました。
「まあ、先生も、そう思っていらっしゃるの。お万殿だって、好んで敵にゆるしたんじゃありますまい、いくさにまけたから仕方がなかったのでしょう。世間にはずいぶん、よい夫を持ちながら、好んでほかの男に操《みさお》をゆるす女があります。では、そういう女は、殺しても足りないのね。お万殿の方が、よっぽど罪が浅いわ。それをむざむざ殺してしまうなんて……」
お雪は頼まれでもしたもののように、ムキになってお万殿に同情を寄せる。
竜之助は何ともいわず、横になったままで肱枕《ひじまくら》をしましたが、その冷やかな面《おもて》がズンズン底知れず沈んで行くようでもあり、また行燈《あんどん》の光に照りそうて、一際《ひときわ》の色をそえるようにも見えます。
「なんにしても、こんな晩には早寝にかぎります、先生もお休みなさいまし、お雪ちゃんもお休みなさいまし」
久助がいい出して、女中を呼び、前の晩のように竜之助はこちらの間に一人、お雪と久助はこちらの間へ隔てて床をのべてもらいました。そこで、竜之助は寝巻に着かえて、大小を引寄せて枕につこうとするのを、見ていたお雪が、
「先生、わたしは、いつもおか[#「おか」に傍点]しいと思いますよ、そうして、お休みになる時までも、刀を後生大切《ごしょうだいじ》にしていらっしゃるのが……」
「もし悪者が来て、これを盗まれでもしようものなら大変だ」
「だって、先生、盗む気で来れば、いつでも盗めるでしょう」
「どうして」
「どうしてって、失礼ですが先生はお目が御不自由でしょう、ですから、盗むつもりなら、いつでも盗めるじゃありませんか」
「盗みに来れば斬ってしまう」
「それでも先生、ちょっと浚《さら》って逃げたらどうなさいます、追っかけることはできないでしょう。また、刀をお抜きになったところで、どこに悪者がいるかおわかりにならないでしょう。ですから、お抜きになっても、トテも斬ることはできやしないでしょう」
「そうも限るまい」
「それは先生が、お目さえ御不自由でなければ、悪者が来ても怖くはないでしょうけれど、肝腎《かんじん》のお目が悪いんですから、盗もうと思えば、わたしだって盗んで見せますわ」
「ははあ、雪ちゃん、お前にこの刀が盗めますか」
「眠っていらっしゃるところを、そうっ[#「そうっ」に傍点]と持ち出せば何のことはないじゃありませんか。それは譬《たと》えですけれども、どうでも盗めとおっしゃれば、今夜にも盗んでお目にかけますわ」
「それでは今夜、盗んでごらん」
「お約束はできませんけれど、もし、わたしが夜中に目がさめましたら、きっと盗んでお目にかけます」
「なるほど。それでは、下げ緒も向うへまわして、お前の盗みよいようにしておきましょう」
「そうして、先生、もし盗めたら、この刀を返しませんよ」
「いいとも、盗まれるのはこっちの落度《おちど》、それを返してくれとはいわない」
「けれども、あやまれば返して上げます」
「返してもらわなくてもよい」
「それでも、わたしが刀を持っていたって仕方がないじゃありませんか」
「それは知らない、盗んだものの捌《は》け口《ぐち》まではわしは知らない」
「おあやまりなさい」
「あやまらない」
「それじゃせっかく盗んでもつまらない」
この時、竜之助は微笑をたたえて、
「雪ちゃん、お前は盗むことばかり考えているが、もし盗みそこねたら、どうしますか」
「そりゃ先生、盗みそこねたら、罰としてお望みの物をなんでも差上げますわ」
「きっと?」
「きっとですとも」
弁信法師も言[#「言」は底本では「行」]った通り、お雪も年ごろの娘であるのに、あまりに無邪気です。自分が愚かなるが故に無邪気なのではなく、人を信ずるが故に無邪気なのです。人を信ずるの深きは、つまり己《おの》れの心の純なる所以《ゆえん》でしょう。
「それではお約束をしましたよ、雪ちゃん、その心持でお休みなさい」
大小をこころもち前の方へ置いて、机竜之助は枕につきました。
「ここから風が入るといけません」
お雪は竜之助のために、枕の間の夜風を、夜具の襟で埋めてしまおうとした途端、ゾッとして唇の色まで変りました。
しかし、べつに夜具の中に鬼も蛇《じゃ》も棲《す》んでいるわけではない。蝋《ろう》のように白い竜之助の寝顔を見た時、はじめて、「姉を殺したのはこの人だ」と言った弁信法師の言葉が、ハッと思い当ったからでしょう。
弁信法師のいうことは、上《かみ》は碧落《へきらく》をきわめ、下《しも》は黄泉《こうせん》に至るとも、あなたの姉を殺したものがこの人のほかにあるならばお目にかかる――それは途方もない出放題《でほうだい》。
弁信さんは、時々ああいうことをいい出すからいけないのだ。
もし、あの弁信さんが今晩ここにいたら、あの人だから、何をいい出すまいものでもない。「今晩、九つ半過から、この道を通って諏訪の明神へおまいりをなさるのは、いにしえ[#「いにしえ」に傍点]のお万殿ではありません、それは殺されたあなたの姉さんです」――こんなことをいい出すかも知れない。どうも、そういう気がしてならない。なお念を押して、「私は血まよってはおりません、私のいうことが本当でございます」と付け加えるかも知れない。
いい時はいいが、悪い時は、弁信さんのいうことは一から十まで気になる。ああ、悪いことを思い出した。
そう思うと、しんしん[#「しんしん」に傍点]と淋しくなって、ほんとうに殺された姉さんが、ほどなくこの街道を通るように思われてならない。見ていればいるほどこの人が、ほんとうにわたしの姉に手を下したもののように疑われてならぬ。
罪という罪は多いのに、夫にそむいて他の男に許した女の運命のみが、なぜそのように酷《むご》いのだろう。わたしには、どうしてもお万殿がそれほどの悪人とは思えない。信長という人の方が、どのくらい無慈悲な、極悪《ごくあく》な男だか知れない――わたしの姉さんだってその通り、優しくって、如才《じょさい》がなくって、うわべだけでない親切気のあった人――ついした間違いが、死を以てするよりほかに償《つぐな》いがないとは、なんという情けない女の運命。
そんなことを考えれば考えるほど、気が滅入《めい》って、あらぬ人に疑いをかけてみたがったり、世間を呪《のろ》いたがってくる。全くこんな晩には早寝をするにかぎると思い直して、お雪は次へ行って帯を解こうとすると、廊下にバタバタと人の足音があって、
「さきほどはどうも、失礼を致しました」
と障子をそっとあけたのは、以前、お雪のいない時に物売りに来たなまめいた女です。
「何か御用?」
帯を解きかけたお雪がこちらを見て返事をすると、女もお雪を見て、ちょっとはにかんで、
「あの――さきほど、そこいらに櫛《くし》が落ちてはおりませんでしたろうか。いいえ、つまらない櫛ですから、どうでもいいのですけれど……」
「あ、櫛ですか、落ちていました」
お雪はほどきかけた帯をちょっ[#「ちょっ」に傍点]と締め直して、
「落ちてはいましたけれど、お気の毒さま、こんなに割れていましたよ」
「まあ」
お雪が行燈《あんどん》の上にさしおいたお六櫛の二つに割れたのを取って見せると、
「おやおや……わたくしのそそうですから仕方がございません」
女はしょげて、二つに割れた櫛を受取り、
「どうもお邪魔を致しました、お休みなさいませ、よろしく」
といって竜之助の寝ている方を横目でチラリと見て、障子を立てきって出て行きました。
ちょっといき[#「いき」に傍点]がった髪の結いよう、お化粧、着こなし、緋縮緬《ひぢりめん》の前掛、どう見ても湯女《ゆな》気分の色っぽい女。お雪はちょっと眩惑されて憎らしい気分がしましたけれど、そこになんとなく人なつこいものの残るのを、さぐってみると、どうも殺された姉に似たところがある。気のせいか知らないが、姉の持っていた、人ずきのする懐かしみをかなり多量に持っている。
今の女が、わたしのいない時にこの座敷へ物売りに来て、そうして櫛を落していった。その櫛が二つに割れている。
「ああ、この女もまた姉のように殺されるのではないか」
忽然《こつねん》として起った何の拠《よ》りどころもない暗示。こんな暗示に襲われた自分を、お雪は戦慄《せんりつ》しました。
この女が廊下でバッタリ、仏頂寺弥助に出逢ったのが運の尽きであります。
弥助は、いや[#「いや」に傍点]がる女を無理に自分の座敷へ連れ込んでしまいました。しかもその座敷には新たに二人の客があって都合四人、酒興ようやく酣《たけな》わなるの時でありました。
女がしきりに、あや[#「あや」に傍点]まるのを、かれはどうしても聞き入れない。女はついに泣き声になっても、どうしても、許すことをしないものだから、その狼藉《ろうぜき》があたり近所の座敷まで驚かすの有様となりました。
しかし、女も、もうのがれられないと観念したか、やがておとなしくなって、そこへすわると、かれらは女に酒を飲ませました。
やむを得ず、女はその盃を受けると、つぎの一人がまたさす。からかいながら、強《し》いてその盃を乾させて興がるのです。もう遅いからぜひおかえしくださいませと、またも女がせがむ[#「せがむ」に傍点]のを、もう一つやればかえすといっては、無理に酒を飲ませる。
女は、できるだけ、それに逆らわずに、酒を酌《つ》いでもらって、早く帰してもらおうとつとめているらしい。
男共は、それと違って、この女をもりつぶして興がろうとしているらしい。
仕方がなしに重ねているうちに、強くもない酒が廻って来るのはぜひもありません。もともと水性《みずしょう》の女ですから、少しずついい気持になって、相手になっているうちに、とうとうもりつぶされてしまいました。
そこで、四人の者は凱歌《がいか》をあげて喜ぶ。
「もういただけません、どうしてもこれで御免を蒙《こうむ》ります」
いったん酔いつぶれた女が、よろよろと立ち上ったのは、それから暫くの後で、初めて気がついたように、
「ああ、もう何時《なんどき》でしょう、いけません、いけません、皆さんは、わたしをだましてしまいました、口惜《くや》しいッ」
女は何におどろかされたか、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]にこの座敷を逃げ出しました。
そのまま梯子《はしご》を駈け下りて、帳場から表入口へ飛び下りた足どり、酔がさめているのではない。
「もう時刻ですよ、泊っておいでなさい、泊っておいでなさいってば……」
帳場で支えるのを聞かず、この女は表へ飛び出してしまいました。
夜の遅いことは知っているだろうが、今が何時《なんどき》だかは忘れている。
「ああ口惜しいッ」
夢遊病にとりつかれたような女は、それでも本能的に自分の下駄だけは間違えないで穿《は》き、盲目的に外へ飛び出してしまいました。
「ああ、こんなに酔っぱらっちまった、頭がガンガンして、からだ[#「からだ」に傍点]が火のように熱い、ああ、わたしはうっかりして、欺《だま》されてしまった、口惜《くや》しいッ」
女はこういって、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に外の街道を駈け出します。
この女
前へ
次へ
全29ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング