神《うぶすな》の森の中なり。折として篝《かがり》を焚くことあり。翌日《あけのひ》見れば青松、柴の枝、燃えさして境内にあり。或はまた青竹の大きなる長さ一尺あまり節をこめて切つたるが森の中にすてありける。これは彼《か》の鼓にてあるべしと里人のいひあへり。ただ囃《はやし》の音のみにして何の禍ひもなし。月を経てやまず。夏のころより秋冬かけてこの事あり、次第次第に間遠《まどほ》になり、三日五日の間、それより七日十日の間をへだたり、はじめの程は聞く人も多くありて何の心もなかりけるが、後々は自然とおそろしくなりて、翌年《あくるとし》、春のころ囃のある夜は里人も門戸を閉ぢて戸出《とで》をせず、物音高くせざりしなり。春の末がた、いつとなくやみけり」
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この怪しむべき囃子の音が、信濃坂を去って、ようやく西にのぼり、ここ武蔵と、相模と、甲斐の国とが、三つ巴《どもえ》に入り込んだ山里のあたりを驚かせているものと見えます。
このごろ、遠音《とおね》にその音を聞くと、土地の者は、おそれをなして早く戸を締める。ことに上野原の町ではちょうど、火の見柱の下で盗賊が狼に食われた前後のことでした
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