を一向に知りません。
 お銀様が進んで行く行く手の谷間から、カラカラと神楽太鼓《かぐらだいこ》の音が起りました。
 それを聞いたお銀様は、いよいよ里の近くなったことを知ってよろこぶ。
 あのはやし[#「はやし」に傍点]の音は、鎮守《ちんじゅ》の夜宮か、或いは若い衆連の稽古。その音《ね》をたよりに里へ出ようとして、かえって里へ遠くなることを気づかないのはぜひもありません。
 この神楽太鼓の音こそ、人を迷わすものでありました。その音の響き来《きた》ることを聞いて、この音の起るところを知らない囃子《はやし》がそれです。土地の人はそれを恐れていたけれど、お銀様は、そのいわれを知らない。
 当時、この附近の村里に住む人は、この太鼓の音を聞くと怖毛《おぞけ》をふるったものです。
「諸国里人談《しょこくりじんだん》」に曰《いわ》く、
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「武州相州の界《さかひ》、信濃坂に夜毎にはやし物の音あり。笛鼓《ふえつづみ》など四五人声にして、中に老人の声一人ありける。近在または江戸などより、これを聞きに行く人多し。方十町に響きて、はじめはその所知れざりしが、次第に近く聞きつけ、その村の産土
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