とじゃ、摺差《するさし》までやってくれ」
「エ?」
 駕籠屋二人が呆気《あっけ》に取られました。
「摺差までやれ」
「はい」
 八州の役人は、その駕籠へ近寄って、手ずから垂《たれ》を揚げたものですから、駕籠屋どもは、もう二の句がつげません。お断わりを申すにも申すべき術《すべ》もなければ、理由を見出す余裕などがあろうはずはありません。相手が泣く児もだまるはずの八州のお役人ときているのですから――
 ぜひなく、この当座の空駕籠は臨時のお客を入れて、再び小仏から摺差へ戻らねばならない羽目《はめ》になりました。しかし、これは常ならばむしろ勿怪《もっけ》の幸いで、一人でも客にありついた商売冥利《しょうばいみょうり》を喜ぶはずになっているのが、今の場合はそうではありません。
「摺差まで三里はございますけれど、この三里は下りでございますから、楽でございますよ」
 以前に客を残して置いたところで、駕籠屋はワザと大声でいいました。
 そこでこの駕籠は、結局以前のお客を置去りにして、新しい権威ある客を乗せて、三里余りの山道を戻ってしまうのです。駕籠が山の蔭にかくれた時分に、木立から立ち出でた最初の客、恨め
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