一つの隠し道であります。
 あの時は月夜、今日は、たそがれ時で、足もとの明るいうちには必ずや上野原の駅へ足を踏み入れようという時分、左手の山谿《さんけい》の間には、遠く相模川の川面がおりおり鏡のように光って見える時、山巒《さんらん》を分けて行く駕籠は、以前のように桐油《とうゆ》を張った山駕籠ではなく、普通に見る四ツ手駕籠。
「そういうわけで、あのお若さんも殺されちまったそうですが、殺したのは多分、もとの御亭主だろうという話で……」
といったのは前棒《さきぼう》の駕籠屋。偶然にも、その駕籠を舁《かつ》いで行く権三《ごんざ》と助十《すけじゅう》は、あのとき机竜之助を乗せた二人であるらしい。
 ただ、乗っている駕籠の客が滅多には口を利かない。
 さて、駕籠屋たちはあの時以来、幾度もこの道を往来したと見えて、あの時の天狗物語も口の端《は》には上らず、丹沢山塊の方面で怪しい火の見えたことも、濃霧に襲われたことも、時効にかかっているらしい。
 陣馬の鼻まで来た時分に、佐野川方面から下りて来る笠を認めた前棒が、
「あ、向うから人がやって来るぜ。おやおや、唯の人じゃねえ、お供をつれたおさむらい[#「さ
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