幸か、今の駒井甚三郎は、一婦人を愛したということが、それほどの罪とは、どうしても考えることができないから、それで死ぬ気にはなれない。
 もし、自分にとって、死に価《あたい》する罪がありとすれば、それは別のところにある。
 駒井の最初の考えでは、ただこの家へ読みたい本を取りに来たまでで、その用が済んだ以上は、さっさと柳橋の船宿へ帰り、一日も早く房州へ引き上げてしまおう。今もまた、その考えで、人通りのほとんどないほどの朝まだきに番町を出て、こうして、下町方面へ、無意識に急いでゆくうちに、むらむらと巻き起る考えが、駒井の足の向きを変えさせてしまいました。
 この機会に父母の墓に詣《もう》で、先祖へ対する心ばかりの謝罪をするのも、無用なことではあるまい。こう思い出したから、駒井は足の向きをかえて、小石川の方面へとこころざしたものです。
 駒井甚三郎の父母の墓も、先祖の墓も、小石川の伝通院にある。一族、親戚の墓も多くそこにあるはず。
 ほどなく、安藤坂を上ると、伝通院の門前。まだ時刻が早過ぎるので、どうかと思ったが、見れば門前に、花を売る店が早くも戸を開いて、表の道の箒目《ほうきめ》もあざやかで
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