お長屋のうちで、ただ一軒だけ燈火《あかり》をつけて夜業《よなべ》をしていたのが、思いがけなく外から呼ばれて驚きました。
この屋敷の広さは、誰が見ても三四千坪以上、周囲にはお長屋があって、表は長屋門、左右には黒板塀、書院、表座敷、居間、用部屋、使者の間、表玄関、内玄関、詰所詰所、庭があり、林があり、築山があり、茶畑まであって、三千石以上の旗本の屋敷としては総てが備わっているが、主人がいない。
主人のいない屋敷は荒れるにきまっている。たとい留守を預かるほどの者が心がけがよくって、見苦しからぬよう手入れを怠《おこた》らぬにしたところで、主人を持たぬ家は、その鬱然《うつぜん》たる生気を失うにきまっている。
駒井能登守が、すでにこの屋敷を離れてかなりの日数になる。まだ見苦しいほどには荒れていないが、なんとなく痛々しい空気が漂うているのはぜひがない。
このお長屋にひとりで留守をしているのは、以前、甲府までも主人のおともをして行ったことのある近習役の阿部一学であります。ほかの家来は、それ以来、ちりぢりになって、多くは別に主取りをしているのに、一学だけは、決着のお沙汰のあるまでこの屋敷に踏みと
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