にと、嘆息したものだと解釈して、夜学の先生を狼狽《ろうばい》させたこともあるのです。
 事実、七兵衛にとっては、世間の人のすべてが欲しがる金銀財宝は、無条件で手に入れることもできるし、また世間の人の羨ましがる名所ゆさんも、気の向くままにやってのけられるのだが、自分としての幸福や愉快は、そこには得られないで、こうして、あたり[#「あたり」に傍点]前の百姓として藁《わら》を打っているところに、無上の平和と愉楽のあることを思えば、世間の見るところと、求めるところと、本心のそれとは、みな逆にいっているものだとしか思われないのであります。
 こうして七兵衛は、自分の早足を載せる草鞋をつくっている。雨は小やみなく降っている。近隣はいと静かで、裏の娘が織る機《はた》の音さえ、かえって物わびしい風情を添えるばかりです。
 その機の音を聞くと、七兵衛は、あの娘も年頃になったが、間違いのないうちに、早くよいところへ嫁《かたづ》けてやりたいものだと思いました。
 そうして七兵衛は、その昔、自分が青梅街道へ捨てた子供のことまで考え出して、いま、無事に育っていれば幾つになると、草鞋をつくる手を休めて、その指を折ってみたりなどしました。
 無事に育って、日傭取《ひようとり》かせぎ[#「かせぎ」に傍点]でもいいから、こくめい[#「こくめい」に傍点]に働いてさえくれればよい、間違っても、おれのように足が早く生れついてくれるなと心配しました。
 非常な生活には、非常な警戒心が要るから、人を恋しがるような余裕は薄らぐのに、きょうはあたりまえのところへ置かれているから、あたりまえの人情が湧くと見えます。
「こんにちは……」
 さいぜん、機音《はたおと》がやんだなと思ったら、いま、裏口に訪れたのは、その若い娘の声にちがいないと思いましたから、七兵衛が、
「はいはい」
 膝の上の藁《わら》を払って立とうとすると、娘は早くも前の方へまわって来て、
「よく降りますね」
 傘をさして、手には小笊《こざる》を提げております。
「よく降るこってすね」
 七兵衛も相槌《あいづち》を打ちますと、
「おじさん、お薯《いも》をふか[#「ふか」に傍点]したから一つ持って来ましたよ」
「それはそれは」
 七兵衛はおおよろこびで、娘のさしだした小笊を受取ると、中にはおさつ[#「おさつ」に傍点]のふかし[#「ふかし」に傍点]立てが十ばかり湯気を立てています。
「どうも御馳走さま」
「どう致しまして」
「まあ、話しておいでなさいましよ」
「ありがとうございます」
 娘は、ちょっ[#「ちょっ」に傍点]と立ちまど[#「まど」に傍点]うていましたが、
「また参りましょう」
「そうですか、では、また話しにおいでなさいな」
「ええ」
 七兵衛は、小笊の中へ付木《つけぎ》を入れてかえすと、娘は、それを持って帰って行きました。
 再び膝を組み直した七兵衛は、ぼんやりと娘の帰っていったあとを見送って、
「うむ、いい娘になったなあ、少し見ないでいるうちに……」
 ハチ切れそうな娘ざかりの肉づきが、この時ひどく七兵衛の目に残りました。
 今まで、女というものの存在をわすれてでもいたかのように、七兵衛は、今の娘を帰してしまったことを、なんとなく残りおしくてたまらない心持になって、無理にひきとめて、京大阪の話でも聞かせるのだったのに……
 そういえば、娘もなにか物欲しそうに来ていた様子……上手《じょうず》に言えば、いくらでも話し込んでいたにちがいない。
 いったい、おれは女には気を置き過ぎる……と七兵衛が自分を歯痒《はがゆ》く思ったのはその時で、腕を振えば、いくらでも振える機会を、ついその場になると、かわいそうになったり、冷淡になったりしてしまう。
 盗賊を商売にするものには、物を盗むのを二の次にして、女を自由にするのを得意にする奴がある。七兵衛は、そうなれない。物を盗《と》るのは償《つぐな》いがつくが、女を辱《はずかし》めるのは罪だ……というような気に制せられるのを、自分ながら不思議に思う。
 娘はかわいそうだ、主あるものは罪だ……その時、七兵衛の頭に、むらむらと湧いて来た面影《おもかげ》は、神尾主膳のところにいたお絹という妖婦《ようふ》のことであります。
 あの女ならば、いくら弄《もてあそ》んでも罪にはならない……おれはいったい、あの女とずっと以前から近づきになっていたのに、いらぬ遠慮をしていたものだ。あとから出た百蔵あたりが、かなり甘ったるい言葉づかいをするのに、それをあざ[#「あざ」に傍点]笑って高くとまっていたおれは、淡泊なのか、それとも意気地がないのか。
 七兵衛としては妙な心に動かされました。

 雨のやむのを待って七兵衛は旅仕度をととのえて、わが家を立ち出でました。まず江戸をめざして行くのかと思うと、そ
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