井能登守を、人もあろうに女軽業の親方のお角がとりこ[#「とりこ」に傍点]にしている、とりこ[#「とりこ」に傍点]にした上に金を絞って、興行の旗上げに使っている――という噂を聞いたものですから、お絹が躍起になったのも無理はありません。
堅いようでお目出度い殿様――人交わりのできない女を相手にして、れっき[#「れっき」に傍点]とした家柄を棒に振ってしまうし、今度はまた女軽業の親方風情に翻弄《ほんろう》されて、おまけに大金をつぎこんでいる。それほどのたあいない殿様を、自分の手に入れることができないとあってみれば、意地にも我慢にも腹が立つ。それに、お角という女、何かにつけて自分に楯をつくのみならず、ややもすれば自分を取って押えて、上に乗ろうとするような仕打ちを見せるのが癪《しゃく》だ。
どちらからいっても、この分には済まされない。そこで自分の自信も満足し、お角という女をとっちめる[#「とっちめる」に傍点]最上の策は、駒井能登守を生捕《いけど》ることだ。そうすれば一挙両得で、戦わざるにお角の陣営は崩れてしまう。こうして神尾を当座の足場として置いて、お絹のこれからの仕事は駒井を生捕るということに集中させる。まだ整理しきれない座敷の中で、その晩お絹は、行燈《あんどん》の下に机を置いて、一心に手紙を書き出しました。
二十三
青梅《おうめ》の裏宿の七兵衛は、この時分、裏宿の家におさまって、雨降り仕事に、土間へむしろを敷いて、藁《わら》を打って、しきりに草鞋《わらじ》をこしらえておりました。
こうして、あたり[#「あたり」に傍点]前の百姓家におさまって、雨降り仕事に草鞋をこしらえているところを見れば、だれが見ても、あたり[#「あたり」に傍点]前の百姓で、これを稀代《きだい》な盗賊と見るものはありません。
七兵衛自身も、その本心をいえば、どのくらい、このあたり[#「あたり」に傍点]前の百姓を有難いことだと思っているか知れないのです。そうして、あたり[#「あたり」に傍点]前の百姓になりきれない自分というものを、こういう際には恨みにも思うほどに、心もおだやかなものであります。
多年、誰とて、自分の内職をあやしむものはないようなものの、いつまで、この隠しごとが現われずにいるものではない。早晩、三尺高いところへ自分の首がさらされる運命の来《きた》ることを思えば、いい気持がするものではありません。
自分を、あたり[#「あたり」に傍点]前の百姓で置くことをゆるさなかった第一のものは、女房をもらいそこねたということで、第二は、持って生れたこの早い足のせい[#「せい」に傍点]であると、七兵衛はよくそれを呑込んでいる。あるいは第一のものが、第二のものより先に、自分の方向をあやまらせたのではないかとさえ思う。
女房を持ちそこねたという第一の不運は、残された子供をすててしまったという第二の不運となり、その不運と不幸をなぐさめるために、持ち前の早足で、諸方へあそびに出てみたのが、第三の横道を教えてしまいました。
人はその不能に溺《おぼ》れずして能に溺れる、とは、よく寺小屋の先生から聞いた言葉であるが、七兵衛もまたつくづくその真理であることを感ずる。
自分の早足で歩いてみると、世間並みの歩き方が馬鹿に見えて仕方がない。これがそもそも、七兵衛の邪道を行く最初の慢心でありました。この早足を利用して、人間ののろま[#「のろま」に傍点]をねらうことに味を占めた七兵衛は、一歩一歩とその興味にハマリ込んで、今はぬきさしのならない玄人《くろうと》になってしまいました。
しかし、なお一方に残された三分の聡明性は、よく、裏と表とを塗りかくして、いまだ誰人《たれびと》にも、そのボロを見せないだけの横着と、細心とを保っているのです。
ですから、誰が見ても、表面はあたり[#「あたり」に傍点]前の百姓で、百姓の合間にその早足を利用して、尋常茶飯《じんじょうさはん》の如く、京鎌倉までも出かけてくる余裕が、近隣の百姓たちを羨《うらや》ませておりました。その実、七兵衛の本心では、自分の能を羨ましく思う百姓たちの不能を、羨ましく思うことばかり多く、あたり[#「あたり」に傍点]前の水呑百姓で、コツコツと畑を打って、女房子供を食わせていって、一生を終ることができれば、これに越した幸福はあるまいと、今も草鞋《わらじ》をつくりながら、つくづくとそれを考えているところであります。
十八史略までは素読《そどく》を授かった覚えのある七兵衛は、「我をして洛陽負郭二頃《らくようふかくにきょう》の田《でん》あらしめば、いずくんぞよく六国の相印《しょういん》を佩《お》びんや」という文句を聞いて、それはおれの家に二反の畑さえあれば、いまさら六国の相印を佩びて苦労するにもあたらなかった
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