した。
 窓といっても、本来が仮小屋ですから、特にそれがために切ったのではなく、幕を下ろせば壁となり、幕を絞れば窓となるだけの組織ですが、ちょうど、その幕が絞ってありましたから、お角は、その傍へ寄って柱に凭りかかって、外の空気に触れると、ここは高いところですから、眼の下に新しい世界が、新たに展開した心持がしました。
 新しい世界といっても、場内の変幻出没のような夢の国の世界が現われたのではなく、尋常一様の両国回向院境内の世界ですけれども、人気と、眩惑と、根《こん》づかれの空気にのぼせ[#「のぼせ」に傍点]たお角にとっては、その尋常一様がまた新世界のように感ぜらるべき道理でもあるが、ことにその眼の下に現われたのは、回向院の墓地でありました。乱離たる石塔と、卒塔婆《そとば》と、香と、花との寂滅世界《じゃくめつせかい》が、急に眼の下に現われたものですから、お角は目をすま[#「すま」に傍点]しました。
 お角が人いきれの中から面《おもて》を窓の下に曝《さら》すと、そこは回向院の墓地であります。卵塔《らんとう》と、卒塔婆の乱離たる光景が、お角の眼と頭とを暫しながら、思いもかけない別の世界に持って行きました。
 お角は、その荒涼たる人生の最後の安息所を、我を忘れて見下ろしていた間は何事もありませんでした。
 そのうちに、墓地の一方の木戸をあけて、静かに内部へ足を運んで来る二人づれのお墓参りのあったことを気づいたまでも無事でありました。
 一方、魔術の世界の華麗と、眩惑に浸っている群衆と、また一方、こうしてしめやかに人生の最後の安息所へのお参りに足を運ぶ人とが、背中合わせになっている。それをお角は、やはり無心にながめて、頬のほてりを冷している。お墓参りの二人の者もそれを知らず、まだ新しい木標《もくひょう》の前に近づくと、二人のうち、案内に立ったお屋敷風の小娘が、
「ここでございます」
で、手にかかえていた阿枷桶《あかおけ》をさしおくと、それに導かれて来た、塗笠に面《おもて》を隠した人柄のある一人のさむらい[#「さむらい」に傍点]。
 手に携えていた香華《こうげ》を、木標の前の竹筒にさして、無言に立っていると、娘は阿枷の水を汲んで、墓木《ぼぼく》と花とに注《そそ》いでいる。
 塗笠のさむらい[#「さむらい」に傍点]は、木標の前に立って、軽く頭《こうべ》を下げて、感慨深く立っている。
「殿様、どうぞ、お水をお上げくださいまし」
 娘は杓柄《ひしゃく》を武士の手に渡すと、それを受取った武士は、墓に水を注いで、
「この文字は誰が書きました」
「御老女様からのお頼みで、大僧正様が書いて下さいました。御老女様は、そのうちお石塔を立てて、そのお石塔の後ろへ、朝夕《あしたゆうべ》の鐘の声、という歌を刻んで上げたいとおっしゃいました」
 高いところで、見るともなしに見ているお角の耳へは、無論この二人の問答は入りませんが、満地の墓碣《ぼけつ》の間にただ二人だけが、低徊《ていかい》して去りやらぬ姿は、手に取るように見えるのであります。そこで、お角は早くも、これはしかるべき大身のさむらい[#「さむらい」に傍点]が、微行《しのび》で、ここへ参詣に来たものだなと感づきました。表には憚るところがあって、この娘だけが一切の事情を知っていて、お殿様の案内をして、こっそりと参詣に来たものだなという感じは、お角のような打てば響くところのある女性には、見て取ることが早いと見えます。
 その大身のさむらい[#「さむらい」に傍点]と思われる人品のあるのは、最初から笠に面を隠していますから、その何者であるやは確かにはわかりませんが、羅紗《らしゃ》の筒袖羽織に野袴を穿《は》いて、蝋鞘《ろうざや》の大小を差し、年は三十前後と思われるほどの若さを持っているのが、爽やかな声で言います、
「それから、あの奇怪な風采《ふうさい》をした少年、少年といおうか、或いは若者といおうか、正直にして怒り易い、槍に妙を得た、あれの幼馴染《おさななじみ》といった男は、どうしていますか。あの男を、そなたは御存じか……君《きみ》は絶えずあの男に逢いたがっていたのだが……」
「ああ、米友さんのことでございますか……」
と娘が答えた時に、大魔術の小屋で大太鼓と金鼓《きんこ》の音がけたたましく、鳴り出しましたから、墓地の中の二人も、これに驚かされ、問答の半ばでふたりいい合わせたように、この高い天幕の小屋を見上げますと、そこで計らずも、窓から見下ろしていたお角と面《かお》を見合わせました。
「おや?」
と驚いたのはお角です。こっちは窓に人がいると気づいただけですけれども、お角はこの墓地の中から、笠の面《おもて》を振上げたその中の人を見て、驚いてしまいました。その人は、もとの甲府勤番支配、駒井能登守に相違ないと思ったからです。
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