御免下さいまし」
 そのやわらかな手を、首筋から頬のあたりへうつした時に、竜之助の面《おもて》がひときわ蒼白《あおじろ》くなりました。
「もうよろしい」
「どうも失礼を致しました……いいえ、お代はあとで帳場からいただきます」
といって、女が出て行ってしまったあとで、竜之助は、自分の身に残るうつり[#「うつり」に傍点]香《が》といったようなものに、苦笑いをしました。
 これは売女《ばいじょ》の類《たぐい》だ。物を売ることにかこつけて、色を売らんとする女。よく温泉場などにあった種類の女――おれをそそのかしに来たのがおぞましい。
 とはいえ、今の竜之助にあっては、女というものの総ては肉である。美醜をみわけるの明《めい》を失っているから、美のうちに貴《たっと》ぶべきものの存するのを発見することができない。醜を感知するの能を失ってから、醜の厭《いと》うべきを知って避けるの明がない。
 いや、それは単に女ばかりではあるまい。この男は、すべてにおいて、むずかしくいえば、宗教がなく、哲学がなく、またむしずのはしる芸術というものがない。ただあるものは剣だけです。勝つことか、負けることかのほかに生存の理由がないので、恋というものも、所詮《しょせん》は負けた方が倒れるものである。心中の場合においては、大抵、男が女に負けて引きずられて行くのである。曰《いわ》く薩長、曰く幕府、曰く義理、曰く人情、みな争いである。争いでなければ、争いを婉曲《えんきょく》に包んだものに過ぎない。人間日常の礼儀応対までが、この男の眼――見えない眼を以て見れば、ことごとく剣刃《けんじん》相《あい》見《まみ》ゆるの形とならないものはない。いやまだまだ、人間の生存そのものが、また一つの立合である。
 一剣を天地の間《かん》に構えて、天地と争って一生を終る――所詮、天地の間に吐き出されて、また天地の間に呑まれ了《おわ》るものと知るや知らずや。生存ということは、天地の力に対抗して、わが一剣を構ゆることに過ぎない。わが一剣の力衰えざる限り、天地の力といえども、如何《いかん》ともすることができない――と、彼はそう思わないで、そう信じている。
 女というものに触れる時――彼は、いつでも戦いを挑《いど》まれたように思う――そうしてこれを斬ってしまわなければ己《おの》れが斬られてしまうように思う。この場合においては、相手の善悪美醜を
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