選ぶのいとまがないのです。

 まもなく久助とお雪は外の湯から帰って来て、鮒《ふな》や小蝦《こえび》をお茶菓子に、三人お茶を飲みました。そこへ、宿の番頭がやって来て、
「ええ、御免下さいまし、毎度、御贔屓《ごひいき》に有難う存じます。ええ、それからちょっと申し上げておきまするは、今晩のところは、土地の風習で、お万殿の夜詣りということになっておりますから、九ツ半過ぎては、外へお出ましにならぬように、なにぶんよろしくお願い申します」
と言う。
「何ですって」
 それをお雪が聞きとがめると、番頭が、
「お万殿の夜詣りでございまして、はい」
と番頭が答える。
「お万殿の夜詣りというのは何ですか」
 お雪が念を押してたずねる。
「ええ、何でございますか手前もよくは存じませんが、月に一度ずつ、お万殿の夜詣りということがございまして、その晩、九ツ半過、外へ出ますと、祟《たた》りがあるといい伝えられているのでございますから、なにぶん……」
「ええ、ようござんす」
 お雪が、それを承知してしまいました。断わられなくても、大抵の人は九ツ半過、今の夜中から一時までの真夜中をかけて、出て歩く必要はないはず。
 そこで、番頭が行ってしまったあと、お雪ちゃんは、まだ何か物足らない面《かお》で、
「お万殿の夜詣りって何でしょう、外へ出ると祟りがあるんですって」
「ナニ、詮索《せんさく》するがものはがあせんよ、土地の習わしですから、郷《ごう》に入《い》っては郷に従えといってね」
「ですけれども、こんな夜更けにわざわざお詣りをなさるお万殿という方も、気が知れない」
「何か因縁があるでがしょうね」
「丑《うし》の刻《とき》詣《まい》りじゃないでしょうか。丑の刻詣りの人に道で行逢うと、祟りがあるっていいますから――」
「ですけれどね、わざわざ先触れをしておいて、丑の刻詣りをする人もないもんじゃありませんか」
「それも、そうですね」
「まあ、なんにしても九ツ半から外へ出さえしなければいいのさ、言われた通りにね」
「なんだか気がかりになるわね」
 久助は触らぬ神に祟りなしの態度を取っているが、お雪ちゃんは腑《ふ》に落ちないものがあって、あきらめきれない。あらためて竜之助に向い、
「先生、御存じですか」
「知らない」
「おかしいわね」
 お雪は首をひねって思案してみたが、
「考えたってわかりゃしませんわ、塵劫
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