気がつかなかったお客は、多分、暗くなってから着いたお客だろうと思い、
「今夜は、お月夜かも知れません、障子をあけましょうか」
 気を利《き》かして、女は剃刀の手を休め、客をして月明の諏訪の湖《うみ》をながめ飽かしめんとした好意を、竜之助は断わって、
「風が冷たいからそれには及ぶまい。そうだな、月というものを見たのは、いつのことか。伊勢の阿漕《あこぎ》ヶ浦《うら》というところで見たのが、あれが最後だろう。いや、あれは見たのではない、聞いたのだ。夕凪《ゆうなぎ》と朝凪《あさなぎ》に名を得た静かな伊勢の海、遠く潮鳴りの音がして、その間を千鳥が鳴いて通った時、浜辺と海がぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と明るくなったように覚えている。多分、あの時に月がのぼったのだろう。あれ以来見たことはもちろん、聞いたこともない」
 竜之助が、謎のような独語《ひとりごと》。急に剃刀の手を止めた女の面《かお》が美しいものになりました。
 この女は、もうよい年ですけれども、お化粧をして、赤い縮緬《ちりめん》の前掛をしていましたが、
「まあ、伊勢からおいでになりましたのですか」
 急に、晴々《はればれ》した美しい面になると、真紅《まっか》な縮緬の前掛が燃え出したようにうつり合いました。
「伊勢から来たというわけでもないが、伊勢には暫くいたことがあるのだ」
「それでは間《あい》の山《やま》をごらんになりましたか」
「間の山は見ないけれど、間の山節というのを聞いたことがある。そういうお前こそ伊勢の国のうまれか」
「わたくしは伊勢のうまれではございません、どこといってうまれた国は……まあ、渡りものなんでございますね」
「渡りもの?」
「ええ、お恥かしい話ですが、男に欺されて諸国をひきまわされたあげく、今ではこうして信州の諏訪へ来て物売りを致しておりますようなわけでございます。女というものは、水性《みずしょう》なものでございますから、男次第でどうにでもなります。ほんとうに意気地のないものでございますね、オホホホホ」
 この時の女の言葉には、触《さわ》れば落ちるような甘味をふくんでいたので、竜之助は暫く沈黙しました。
「ねえ、旦那様、おついでにお面《かお》の方も、もう一ぺんあた[#「あた」に傍点]って上げましょうか。殿方のおあたりになったよりも、これでも女の方が、手ざわりがいくらかやわらかになるかも知れません。
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