か、それとも人間か。
お銀様が思い乱れている時に、不意に轟然《ごうぜん》として、山谷をうごかす一発の銃声が起りました。
この鉄砲の音はいずれから起ったかわからないが、その一発の音が起ると、さしも昼を欺《あざむ》くほどに焚かれていた篝火が、ほとんど一度に掻消され、同時に歌舞音曲の賑いはパッタリとやみ、人が闇中を右往左往にうごめき出す。ただその右往左往にうごめく人が、枚《ばい》をふく[#「ふく」に傍点]んだ夜討のように、一言も声を立てないで、踊りの庭と幕屋の内外を走り廻り、物を掻集め、ひきほどきひきむすんでいる体《てい》は、まさしく隊を組んでこの場を走ろうとする形勢であります。
お銀様だけは、どうすることもできません。幸か不幸か忘れられていました。眼前の幕屋でさえも、手早く引きほごされて、荷ごしらえをされる有様なのに、忘れられたお銀様は、ただ怖ろしい夢の中で、走れない人のように気を焦立《いらだ》つけれども、この場合、助けを呼ぶのが利益か不利益かはわかりません。すべてが沈黙して暗中にどよ[#「どよ」に傍点]めいている時。
つづいて山谷にこたゆる第二発目の鉄砲。
その谷間より程遠からぬ柿の木平というところに立っていた猟師の勘八と宇津木兵馬。
勘八が鉄砲の狙《ねら》いをつけると、兵馬は逸《はや》りきった犬の紐をひかえながら、
「まあ、待って見給え、もう少し近寄ってみようではないか」
勘八の切って放とうとしたのは第三発目の鉄砲です。
その第一発を、やはり同じところから発射した時に、賑やかな拍子の音が、パッとたえ、それと同時に、さしも昼間のように明るかったその一団の火がフッと消え、闇の中に、なんとなく谷間が動揺しているようですから、程を見すまして第二発を切って放したが、これは手答えがありません。やがて闇中の動揺も静かになって、一様に空々寂々たる山谷《さんこく》の夜となりましたから、二人はまさしく物につままれたような気分で、なお暫く形勢をみていましたが、用心のため、更にもう一発を切って放ち、そうして、その明りと音のあった方向へ進んでみようというつもりで、勘八が第三発目の狙いをつけたのを兵馬が遮《さえぎ》って、ともかくもこれから探り寄って見ようという。
そこで二人は、わざと火縄をかくし、松明《たいまつ》もつけず、闇にまぎれて、最初の怪しい音と明りの場所をめざして進ん
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