分するかと見れば、案外にも易々《やすやす》と表門を素通りさせて、彼等をこの屋敷の中に吸い込んでしまいました。
しかし薩摩の士の風俗をしているからとて、必ず薩摩のさむらい[#「さむらい」に傍点]だと限ったわけはありますまい。この薩州屋敷では、このごろ、ずいぶん人見知りをしないで人を入れる。
まず玄関には非常に大きな帳簿が備えてあります。それの巻頭には誰の筆とも知らず、達筆に尊王攘夷《そんのうじょうい》の主意が認《したた》められてあって、その主意に賛成の者は来るを拒まず、ということになっている。諸国の尊王攘夷の志士は、肩を聳《そび》やかし、踵《きびす》をついで、集まり来って、この帳簿へ記名誓約をする。紹介者あって来るものもあれば、自身直接に来るものもある。薩州邸ではそのいずれでも拒むということをしない。
五百人内外の人は、いつでも転がっているが、これらの食客連の日中の仕事は、武芸をやること、馬に乗ること、感心に読書学問をやっている者。為すことも気儘勝手《きままかって》、出入りも自由。けれどもその自由放任が、ある時は、無制限になって、ここから夜な夜な市中へ向けてきりとり強盗に出かけたものまでが黙認される。
火放《ひつ》け強盗はおろかなこと、この屋敷から或る時は甲州へ向けて一手の人数が繰出される。或る時は下総、或る時は野州あたりへ繰出して、そこで大仕掛な一揆《いっき》の陰謀が持ち上る。
その主謀者の方針は、江戸の市中はなんといっても相応に警戒が届いている。ことにこのごろ、募集した歩兵隊――一名|茶袋《ちゃぶくろ》は烏合《うごう》の寄せ集めで、市民をいやがらせながらも、ともかくも新式の武器を持って、新式の調練を受けているから、それを相手には仕事がしにくい。近国へ手を廻して騒がせておけば、自然お膝元の歩兵隊が繰出す。その空虚に乗じて江戸の城下へ火をつけ、富豪の金穀を奪うて、大事を挙げる時の準備にしようという方針らしい。
斯様《かよう》な方針を立てている主謀者は何者か。どうかすると西郷吉之助の名前が出ることもあるが、西郷はここにいないで、益満《ますみつ》休之助と伊牟田《いむだ》なにがし[#「なにがし」に傍点]と小島なにがし[#「なにがし」に傍点]と、このあたりが主謀者ということである。
益満は長沼流の撃剣家で、山岡鉄太郎などとも懇意であり、この益満の後ろに西郷がいて
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