だから、お角とてもだまってはおれなかったろうが、この時はもう一行は去って、誰もおらず、ただ香のけむりが断々《きれぎれ》としてのぼっていることによって、お角はまたあのお墓へ誰かおまいりに来たなと思っただけでした。
 あのお墓へは、駒井甚三郎もお参りに来たし、今日もまた誰かお参りに来たようだが、いったい誰の墓なんだろうと軽くお角の頭にのぼっただけで、それ以上には想像を逞《たくま》しくすることがありませんでした。
 もう少し深く突きとめて、これが、嘗《かつ》ては自分の下に使ったことのある、お君という薄命な娘の、地上における存在の記念であると知ったならば、お角とても、そのままにはしていなかったろうに――
 今のお角には、お君という女の死生《ししょう》も知らず、まためまぐるしいこのごろの生活では、ホンの少しばかり念頭に上って来ることさえ極めて稀れであったのです。
 それで、あっさりと、それだけが頭脳にうつっただけで、やがて階《きざはし》を下って、土間から楽屋の方へと進んで行くと、楽屋の入口でやかましい人の声。
 その声を聞きつけて、お角は忽《たちま》ち気取《けど》ってしまいました。
 寄生虫がやって来たな。
 興行界を渡りあるくゴロがやって来たな、今まで来なかったのが不思議だが、果してやって来た、千秋楽を見込んでやって来たからには、ただは動くまいと、お角は度胸をきめてその方に出向くと、
「親方!」
 ゴロが早くも認めて呼びかけました。その背後には四五人の同勢がいる。
「何です」
「おめでとう、大当りでおめでとう。だが親方、いいことの裏には悪いことがある、あんまり当り過ぎると罰《ばち》が当るから、用心しなくちゃいけねえぜ」
「大きに有難う、それがどうしたというの」
「勝って兜《かぶと》の緒を締めろとはここなんだぜ、親方」
「何だかわからないよ」
「高い木は風に揉まれるというやつさ……親方が大当てに当てたもんだから、世間から目ざされるようになったんだ。世間から目ざされるようになるとあぶない」
「何があぶないんだエ、なにもわたしは、世間様から目ざしてもらおうともなんとも思っちゃいないんだよ、名前を売りたいとか、親分になりたいとか、そんな了見《りょうけん》でやってるんじゃありませんからね、商売でやってるんだから、当ることもありゃ、外《はず》れることもありまさあね」
「まあ、そう、ポン
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