通り、別れる時は泣いてあやまったかも知れません。
 お絹としては、早く、あんな男と手を切ってしまいたかったが、いま手を切っては自分の身の落ちつきに差当って困るから、いいかげんにあやなしていたので、神尾の江戸入りがきまると、自分の運命もきまるように計画を熟させておきました。
 そこで、福村をうっちゃ[#「うっちゃ」に傍点]ることができて、こうして、いい気持で乗込んだのもかなりに図々しいが、今までの身持を、この際すっかり忘れて、平気でそれを引寄せて、うれしがっている神尾も神尾です。
 そうかといって、お絹とても、この神尾が永久に頼みになる人間とは思っていまい。あれも一時《いっとき》、これも一時で、その場、その場の足がかりさえあれば、前後のことは考えておられない――といってしまえば、それまでですが、神尾は知らず、お絹としては、ここへ乗込んでくるまでに、また考えたこともあれば、ひそかに蓄えた野心もあるので、神尾をあやなしながら、まだまだ自分を捨てた気にはなりません。仕事はこれからですよ、と口に出してもいっているくらいだから、心では油が乗っているし、第一その相手欲しい肉体が、絶えずそれを物語っているのをどうともすることができません。
 今、お絹の胸に蓄えられている野心の一つを打割って見ると、どうしても元の駒井能登守、今は駒井甚三郎をとりこ[#「とりこ」に傍点]にしてやらねば虫がおさまらないといういきはり[#「いきはり」に傍点]があるのです。
 この女は、甲府にいる時分から、駒井に気があったのは事実で、ついにそれが成功するに至りませんでした。あの時分は生来の浮気がもとで、自分の腕にかけての自信というようなものも加わって、評判になるほどの男を自由にしないまでも、その心をこちらへ向けて焦《じ》らすことに快感を覚えるという程度のものでありました。それが思うように利目《ききめ》がないと見ると、今度は自分が焦れ出して、なあに、いつか一度はこっち[#「こっち」に傍点]のものにして見せるといった腹でいるところへ、例の間違が持ち上って、とうとう、駒井も、神尾も、両倒れの体《てい》で、甲府を引上げるようになってしまったから、お絹としては、未練というようなものが残って、おりにふれてはむず[#「むず」に傍点]掻《がゆ》い思いにたえられなかったのです。
 ところがどうでしょう――このごろ聞けば、その駒
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